読書会の記録(2025年前期)


2025年3月8日土曜日

 

 3月2日に開催した「シルバーバーチ読書会」の報告をしたいと思います。

 

 使用図書「シルバーバーチの霊訓(四)三章 再生の原理」86ページ3行目から

 

 86ページ3行目で、シルバーバーチに次のような質問をされています。

 

 「──占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか。」

 

 そして、シルバーバーチが答えた後、改めて次のような質問をされています。

 

 「──今の質問者が言っているのは、たとえば二月一日に生まれた人間はみんな同じような影響を受けるのかという意味だと思うのですが……。」

 

 ここでは、質問者が求める内容とシルバーバーチが答えた内容とに、何となく行き違いがあるように感じられました。

 しかし、参加者の方の発言を聞いているうちに、シルバーバーチが質問者たちの成長を兼ねて必要なことを語ったのだと思いました。

 

 86ページ6行目、

 「宇宙のすべての存在が互いに影響し合っているのです。」

 

 シルバーバーチによれば、人間は他の惑星からの影響を受けるものの、それは物的エネルギーなので、人間の肉体面に影響を及ぼすそうです。

 

 86ページ11行目、

 「しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度にすぎません。」

 

 人によっては占星術の話から、どの占いがよく当たるのかというような話になる場合があると思います。が、私がここで思ったのは太陽と地球との関係で、地球に住む私たちは夏は暑いし、冬は寒いという影響を肉体面では受けているということです。

 そして、その肉体面で受けた影響をどう感じているのかは、人それぞれ個人差があると思うので、シルバーバーチが語るように、間接的には魂にまで影響が及ぶことがあるのでしょう。

 

 87ページ8行目、

 「人間はあくまでも霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、如何なる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが……。」

 

 そういえば、私が子供の頃は食べることに不自由はしなかったものの、「金持ちの家に生まれてくれば、今よりもっとマシな生活が出来ていたはず……。」と何度も思ったことがあります。

 私に喘息の持病があったことも一因ですが、当時住んでいたアパートの住人は貧乏な家庭が多く、よく一緒に遊んだ子供たちの家には、「ご飯のおかわりと大盛は禁止」という張り紙が貼ってあって、これがこのアパートに住む人たちの現実なのだ。と複雑な気持ちになったのを覚えています。

 

 ところで、シルバーバーチの霊訓は万人受けはしないかもしれませんが、私のように人生のどん底を経験した者にとっては救いになると思うのです。何故なら、自分でも、もうこれ以上は落ちようがないと感じているので、あとはそこから這いあがるだけしかないのですから……。

 

 けれども私が、まだまだこの先、さらに自分が落ちていくかもしれないと思っていた時は、「どうせ私が悪いのだろう。これでも一生懸命やってきたのに、これ以上どうすればいいと言うんだ。頑張っても出来なかったのは、周りのせいではなくて、私が劣っているからと言いたいのだろう。」というように、霊的真理を理由に自分が責められているように感じました。

 

 その状態は自分では最悪だと思っていても、〝まだまだ下が見える〟という、そんな状態です。

 

 本当は、そういう時にこそ、素直に神に救いを求めていれば良かったのかもしれません。

 

 三章の最後に、

 「霊的なことばかりに気を奪われて身体上のことをおろそかにすることは、身体のことばにばかり気を奪われて霊的なことをなおざりにするのと同じく間違っております。心の修養ばかりこだわって他の側面を忘れるのもまた間違っております」と語られています。

 

 私たちは人間として生きているので、霊性と同じように、自分の人間性ということにも目が行くようにした方が良いと感じています。

 

 ごくごくたま~に、「私のように霊性が高いと、霊性の低い人には私のことが理解できないので、そのような人たちから批判されがちになってしまう」とかいう人がいるようですしね。

 

 それはともかく大切なことは、〝身体と精神と霊の調和〟なのだそうです。

 

 調和というのは、お互いが協力して活かし合っている状態だと思います。バランスとの違いは、それぞれが活かし合うことで高め合っていくことなのかなぁと思います。

 

 と言うのは、宇宙と調和するということが、ただ単に宇宙の恩恵やエネルギーを自分が受けるということではなく、宇宙と調和することによって、宇宙と自分の双方が高め合っていくことになるのかなぁと思ったからです。

 

 (本当は音で説明出来れば良いのでしょうけれど)バランスとは、善と悪(あるいは、光と影)を程よく選ぶことで均衡を保つようなイメージがあるのですが、調和(ハーモニー)は、善と悪(あるいは、光と影)のそれぞれを活かし合って高めていくというイメージがあります。

 

 こうして調和とバランスについて考えてみると、人間関係への影響もそうですが、私たちの生き方にも通じる考え方のようですね。

 

 今回は以上となります。

 

 4月6日の読書会は場所と時間が変わりますので、行き違いがないようにお願いします。


2025年2月27日木曜日

 

 今月25日火曜日に、「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」が開催されました。

 

 使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」 第9章 愛の法則がすべてを支配 

 207ページ3行目から終わりまでとなります。

 

 今回の読書会で「カルマの法則」を終えました。今後は新たに、「ホワイトイーグル霊言集」を学ぶことになりました。

 

 今回は、先月のホワイトイーグル読書会の報告の続きを書きたいと思います。

 

 カルマの法則、206ページ14行目、

 「ネガティブなものとポジティブなものはバランスを保っています。そして、ネガティブな力がなければ、言い換えると二つの大きな反対の力が人生に働かなければ、そこには停滞が起こります。」

 

 人間が成長していく過程は、直線的ではなく螺旋的であると言われています。そこには、自分にとって良いことも悪いことも含まれていて、調子のよい時もあれば悪い時もあります。

 

 それはまるで人間の中に、春夏秋冬という季節があるようにさえ思えてきます。時には、嬉しいこともあれば、悲しみに打ちひしがれることもあるかもしれません。

 

 さらに、とても苦しくて辛くて、絶望だけしか見えなくなって、神は存在しないと思う時があるかもしれません。それは私たちの生命が躍動しているからこそ、そのような経験ができるのだと思います。そう、私たちはどんな時も生きているのですから。

 

 もしも、思い通りの理想的な世界があって、そこで私たちが想像し得る限りの幸福を体験することが出来たとしても、永遠にそのままでいる状態、つまり永遠にそこで停滞してしまうとすれば、私たちはそれ以上の成長を望むことが出来ないばかりか、これ以上大霊に一歩も近づくことが出来ないという、真に永遠の苦しみを背負うことになるかもしれません。

 

 それでも今いる地上に比べれば、そのような世界は天国なのでしょう。しかしそれは、本当の天国と言えるのでしょうか?

 

 それはともかく私のイメージとしては、ポジティブとネガティブという相反する二つのエネルギーが、お互いに絡み合ってスクリューのようになって上方に向かい、私たちの霊性進化を促進しているように感じます。

 その場合、どちらか一方のエネルギーだけに偏れば行くべき方向がズレてしまうかもしれません。そうだとすれば、やはり双方のバランスが大切なように思えます。 

 とは言え、これは私のイメージですので、実際に視覚化したとすれば、本当の所はどうなっているのかはわかりません。

 

 最後に、たぶん私たちの誰もが未熟であるがゆえに、ネガティブなエネルギーが働くことが出来るのでしょうし、もしも私たちが完璧であったならば、それ以上の成長は望めないということになるので、やはり、人それぞれ山あり谷ありの人生で順調ということなのでしょう。

 

 結局いつも思うのは、私たちの人生の中に、愛がどれだけあるのかということが重要になってくるということです。

 

 今回は以上となります。


2025年2月22日土曜日

 

 今回は、昨日開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告となります。

 

 使用図書は、シルバーバーチの霊訓(三)三章 魂の自由と解放 52ページ8行目から60ページ10行目までです。

 

 52ページ2行目、

 「真理のために闘う者は最後は必ず勝利を収めるということです。善の勢力をすべて封じ込めることは絶対にできないからです。一時的に抑えることはできます。邪魔することもできます。進行を遅らせることもできます。しかし真理を永遠に破壊したり、あるべき位置に落着くことを阻止し続けることは誰にもできません。」

 

 参加者の方が発言されていたのですが、今は新しい世界へ向かって世の中がいろいろと変化していることを感じておられるそうです。

 私もそのように感じていたので、どうやらこれは私だけの思い込みではなさそうです。まるでシルバーバーチが、今回の読書会の場で、今後の世界について話されたかのような印象を受けて心強く思いました。

 

 とは言え、この三章では、シルバーバーチが交霊会の参加者に向けて、「〇〇しなければなりません」という言葉を多々使用していることから、”シルバーバーチの言う通りに出来ない人間は、人間として失格である”という恐怖を感じて苦しくなってしまう方もおられるようです。

 

 これは人それぞれで感じ方が違うのでしょうけれど、私が感じているシルバーバーチは、厳しいことも言うけれど、とても愛に溢れた優しいお方で、シルバーバーチの霊訓では、それぞれの霊性に合わせて語られているように思っています。

 たぶん、そのことを考慮せずに、シルバーバーチが語ることは”最高の、あるいは絶対的な霊的真理だ”みたいに受け止めてしまったとすれば、出来ないことの多い私ですから、その時はとても苦しくなると思います。

 

 もしも、シルバーバーチが霊的真理を盾にとって冷徹で愛の少ない方であると感じたならば、私はそもそも”シルバーバーチ読書会”というものに参加しなかったでしょうし、ましてや読書会を開いてみなさんと学ぶことはしなかったでしょう。

 

 それと私は、法則の下に愛があるのではなく、愛の下に法則があると捉えている人間なので、なおさらそう思うのかもしれません。それは、人間の作ったルールについても言えることです。

 人によっては、その”愛”という言葉を”神”という言葉に置き換えることで、しっくりといく人もいることでしょうし、そもそもそうではないと思う人もいることでしょう。

 

 55ページ2行目、

 ──新しい世界が生まれつつあるというのは何を根拠におっしゃるのでしょうか。

 

 「私には厳とした計画、神の計画が見て取れるのです。私は霊の力こそ宇宙最大の力であると信じています。」

 

 (世に言う社会改革者たちのことを取り上げて、)

 

 55ページ10行目、

 「ただその人たちは問題の一部しか見ていない──物的な面での平等のために闘っているに過ぎないということです。もちろん精神的にも平等であるべきことも理解しておられるでしょう。が人間は何よりもまず”霊”なのです。大霊の一部なのです。宇宙を創造した力の一部なのです。」

 

 (さらにいろいろと語られていて、)

 

 56ページ15行目、

 「新しい世界はかならず実現します」で締めくくられています。

 

 実際に、シルバーバーチがこのことを語っていたのはずいぶん昔のことかもしれませんが、今の時代にもピッタリと当てはまるように感じています。

 

 そして、これは読書会の内容とは別なのですが、今の私への課題があって、それが”汝の敵を愛せよ”なのです。

 

 これは私にとって何とも言えない重い課題なのですが、目標を見失いつつあった私に新たな課題が与えられたので、何だか生きることが再び楽しく感じられるようになって嬉しいです。

 

 この”汝の敵を愛せよ”についても、きっとさまざまな受け止め方や意見があると思います。出来れば今後、みなさんの意見を聞いてみたいと思っています。

 

 今回の読書会では、参加者の方の母の介護や入院とスピリットとの関わり合いの話を聞いたり、現実、あるいは世界は自分自身が作っている、いろいろと不要なものを手放していくという話を聞いたりなど、いろいろと興味深い話がされていました。

 今回の読書会に限りませんが、そのような参加者の話を聞くことで、私の視野も広がっていくように感じられるので良かったです。

 

 今回は以上となります。


2025年2月16日日曜日

 

 本日開催した、「足立シルバーバーチ・オンライン読書会」の報告です。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(九)一章 シルバーバーチはなぜ戻って来たか」20ページ9行目から23ページまで

 

 まずはじめに予備知識として、この章でシルバーバーチが語っている時代は、おそらく1960年頃だと思われます。

 

 それは、23ページ7行目の「今こうして語っている私は、(四十年ほど前に)はじめて語った、あの霊と同じ年輩の霊です。説くメッセージも同じです。古くからある同じ真理です。」という文章から年代が読み取れました。

 

 この時代は日本も含めて、ビートルズの音楽や言動が世界に大きな影響を与えていたそうです。そして、アメリカでは、ヒッピーと呼ばれる若者の間でニューエイジが流行していたみたいです。ちなみにニューエイジと聞いて「セスは語る」を思い出しましたが、難しい表現があるけれど面白かったです。

 

 それから、シルバーバーチがはじめて語った年が、1920年なのだそうです。

 

 時代背景として、1920年のイギリスは、第一次世界大戦(1914年~1918年)を勝利して終えたものの大きな損害を受けていた時代のようです。

 その後、第二次世界大戦(1939年~1945年)があったことを考えると、60年近くシルバーバーチの交霊会が続いたことは、とても凄いことだと思います。

 

 ところで、シルバーバーチが語る霊的真理とは、私たちが苦しみから逃れる方法が語られているわけではなく、むしろ、私たちが成長するためには、苦しみが必要だとされています。

 さらに、高級霊界のスピリットは何らかの援助が出来ても直接の手出しをすることは許されないそうで、各自が自分の自由意志をどう使うかによって、その後の展開が決まってくるようです。

 それから、いろいろな個所で、人の役に立つことが大切であると語られています。

 しかも、私たちは神の一部であるとか、神とは法則であるなどのような文章をはじめて見たときは、私も驚きました。

 

 書き出したらキリがないのですが、要は、私たちが神に対して信心深い(神や仏の教えを敬い、祈り、守る)人間になるよりも(それは大切なことかもしれませんが)、一方では苦しみを通して、もう一方ではサービス(奉仕)を通して、私たちが成長していくことが大切であると語られています。

 

 シルバーバーチの霊訓には、困った時の神頼みもありませんし、霊的真理を知ることで、私たちの霊の世界での身分が保証されるというわけでもありません。ですが以下の文章には次のようなことが書かれています。

 

 22ページ13行目、

 「ここにお出の方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを身をもって示していただきたいのです。」

 

 参加者の方も話されていましたが、「霊的真理を知って、こんなに幸せになれた」と言えるほど、自分が到達しているとは思えないと言うのが正直な感想です。

 

 もっとも今回の読書会もそうですが、シルバーバーチの霊訓を通して参加者の方たちと一緒に勉強して語り合ったり、時には、機会を見つけてみなさんと一緒に食事が出来ることは、本当に幸せなことだと思えるようになりました。

 

 それから、シルバーバーチの霊訓をよく読まれている方ならご存じかもしれませんが、二度の世界大戦のさ中で交霊会が開かれた時代背景やその時の参加者に合わせて語られていることを考慮すれば、語られている言葉に矛盾が見つかったとしても、それは、シルバーバーチの優しさがそうさせたのだと思っています。

 

 シルバーバーチが神界の高級霊であり、その使命のために、交霊会に参加されている方のそれぞれの霊性の問題を抜きにして、機械的にシルバーバーチが真理を語っていると思われている人はともかくとして、とても人間味に溢れた言葉であると感じるからこそ、私はシルバーバーチが好きなのです。

 

 そして、初めて私がスピリットに対して、尊敬の思いを持てたのがシルバーバーチと呼ばれている霊なのです。そこからやっと、自分の中のナザレのイエスへの誤った情報が改められて、イエスに対しても尊敬出来るようになったことは、私にとって大きなことです。それは同時に、自分の中の奥深くでくすぶってきた”人間不信”の思いが解消されつつあるということでもあります。

 

 そのおかげで、今では素直に他人の幸せを願ったり祈ったり出来るようになってきたので、そういうことも私にとっては”幸せなこと”であると言えるのかもしれません。

 

 と言うことで、霊的真理を知ることで一つでも幸せになれたことがあったと思えるなら、その人は霊的真理を知って良かったと言うことになるのでしょうね。

 

 今回は以上となります。


2025年2月9日日曜日

 

 先週の木曜日から口内炎が悪化して、急激に体調が悪くなりとても辛かったです。仕事こそ休まなかったものの、早く家で横になりたいと思っていました。

 

 しかし、体調が悪くなる原因が私の中にあることは確かなので、何とか昨日の瞑想中にその原因を探りました。それと、私自身が成長しようとしなければ、多大なスピリットの恩恵を一時的に受けられないということも確かなことだと感じています。

 

 今回わかったことは、「自分では幸福を求めてきたつもりが、地上的な快楽を求めてしまっていた」ということでした。

 

 (ちなみに、オンラインゲームを大きな画面でやるためにPS5を移動して、エアコンの風が直に当たる所で長時間やっていれば、喉がやられて風邪を引くのは当たり前だと、二人の息子で話し合っていたそうです。)

 

 私は病気になって苦しまないと真剣に自分のことを見ようとしないのが、今回のことでわかりました。でも、そのおかげで助かりました。というのも、この病気のおかげで少しは成長出来るかもしれないと思えるからです。とにかく私のような、ただの親父が成長するのは大変なのだと実感しています。

 

 それはともかく、地上的な快楽ではない幸せとは人それぞれなのでしょうけど、また一から考えていこうと思っています。

 

 以上となります。


2025年2月3日月曜日

 

 同じ日に、改めて読書会の報告を書きたくなったのは、あるアニメマンガのセリフを聞いたからです。

 

 今回は読書会の報告と言うよりも、自分自身の感想文みたいな話になります。

 

 そのアニメとは、リメイクされた「狼と香辛料」で、その最終回の終わりに放った主人公の言葉となります。

 

 「旅人が村に残すのは、未練ではなく思い出です」

 

 このセリフを聞いたときに、「あぁ、私がこの地上で残すのは、未練ではなく思い出なんだ。そういう生き方がしたい」と強烈に思ったのです。

 

 そう思ったら、今までのいろいろな辛い過去や失敗した嫌な記憶などが、何故か懐かしい思い出のように感じられたのです。

 

 話は変わって、私がはじめてシルバーバーチの霊訓を読んで学ぶようになってしばらくした後に、ホワイトイーグルの本を読むようになりました。

 

 日本語に訳す人が違うせいなのか、ホワイトイーグルの本を何冊か読んでみたものの、シルバーバーチの霊訓に比べて”いまいちわかりづらい”と思いました。

 

 それと過去の話となりますが、ある他の読書会の方などから、シルバーバーチに比べるとホワイトイーグルは格下であるという話を聞いて、”やはり、そうなんだろうなぁ”と思ったことがありました。

 

 今振り返れば、より霊格の高い方について、”自分が少しでも優位でありたい”という依存心がそう思わせたのではないのかと感じています。

 つまり、より霊格の高い方につくことによって、自分の霊格の高さを他や自分に証明したかったのだと思います。さらにシルバーバーチやホワイトイーグルの上に、ナザレのイエスが存在していると思うならば、自分こそがイエスに特別な愛を受けていると思いたい人がいても不思議ではないと思いました。

 今となっては、”愛されたいなら愛しなさい”という格言もあることから、霊格の高い方におねだりをするような依存心を改めて、もっと自分自身に愛が持てるような方向で頑張った方が良いと思っています。

 

 ところで、シルバーバーチの霊訓から学びを得た方ならご存じだと思いますが、苦しみは霊的な成長をするために必要なものであると認識されていると思います。

 一方、ホワイトイーグルの教えでも、魂が急速な進歩を遂げることができる一定の時期には、常に痛み、不安、苦しみが伴うことが語られています。

 とは言っても今のスピリチュアルにとっては、これらの考えは古いそうで、今の時代は、”そのままの自分で良い、そのままの自分で神に愛されている”というようなことが言われています。

 それだけなら、シルバーバーチやホワイトイーグルの教えと大きな違いがあるわけではなく、どちらかと言えばピックアップしている箇所が違うというものだと感じています。

 けれども、苦しみに対する向き合い方には、大きな違いがあるように感じています。その一つに、”苦しみから逃げても良い”し、”苦しみを避けても良い”ということがあげられます。

 さらに、シルバーバーチやホワイトイーグルの教えでは、奉仕やサービスということがとても大切であるとされていますが、今のスピリチュアルでは、”他人や社会に奉仕出来ないことで自分を責めて苦しむ必要はない”と言われています。

 また、お金に対する認識にも違いがあって、”どうすればより多くのお金を得ることが出来るのか?”ということが、スピリチュアルとして取り上げられています。一方で、これからは、お金を必要としない時代が来るという話もあります。

 

 私としては何となく今のスピリチュアルも、「人間とは、何々であるべきだ」という目には見えない束縛によって苦しんでいる人々にとっては、必要な教えだと感じられるのです。それと同時に自分の中でのバランスが大切だと感じています。

 きっと、今までずっと苦しんできた人たちの中には、頑張るだけ頑張ってきた人たちも多いのでしょうから、私からすれば、まずは癒されて欲しいと願ってしまいます。

 その上で、なぜこんなに苦しむ必要があるのでしょうか?と相手から問われたときに、苦しみを超えた先にあるものを一緒に考えていきたいと思うのです。

 

 そのためには、シルバーバーチの霊訓ではこう言っているけど、私は苦しみに対してシルバーバーチと同じように心の底から思っているのだろうか?と自分に問いてみることも必要だと思います。

 

 それから、シルバーバーチの霊訓では、「霊的成長というのは実際に物事を体験し、それにどう対処するかによって決まります」という教えがあることから、過去の私は、”その対処の仕方が悪ければ、霊的成長が失敗に終わってしまう”と勝手に解釈して思い込んでしまった時期があります。

 

 そう思い込んでいる内は、”霊的成長をすることが真に相手のためになる”と思うことによって柔軟さを無くし、苦しんでいる人に対して、一方的に霊的知識を押し付けてしまう場合もあったように思います。それは、相手を何とか変えてあげたいと思う親切心だったのかもしれませんが。

 

 そういう時には、ホワイトイーグルの本を読むと良いと思うことがあります。ホワイトイーグルの本には、愛についての話がたくさんちりばめられているからです。

 相手が大切だと思うならば、知識を与えて相手を変えようとする前に、相手を愛する努力をした方が良いと今思えるのは、ホワイトイーグルの教えを学んできたことが大きいと感じています。

 

 そして今、シルバーバーチの霊訓で面白いと感じているのは、”時間”に対する認識です。

 

 シルバーバーチの霊訓(四)の三章では、「本来時間というのは、”永遠なる現在”だということです。このことをよく理解して下さい。人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来もないのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることが出来ます。もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつかは、これはまた別の問題です。」とあります。

 

 これを何度か読み返した時に、私の中で凄い衝撃が走ったことを思い出しました。

 そして、”神を信じ、神に委ねる”ということは、”今すでに存在している未来の自分を心から信じること”なんだと思いました。

 

 何故なら、今現在の自分が過去の自分を見て、どうすればベストであったかを思えるように、未来の自分にとって今現在の自分がどうすればベストであるのかがわかっていることになるからです。

 つまり、自分の中の良心や導きは、もちろん守護霊や指導霊、ガイドスピリットと呼ばれる存在によるところが大きいとしても、未来の自分でもあるハイヤーセルフと呼ばれる存在があってのことだと思うのです。

 

 そう思うようになったら、今抱えている問題などで悩んだり苦しんでしまうことが、何だか馬鹿らしく思えてきたのです。だって、今の私がわからないだけであって、今すでに存在している未来の私はどうなるのかわかっているのだと思うと、今まで真剣に思い詰めてしまった自分に対して可笑しく思えてしまったのです。

 

 これではまるで、自分に用意されたエンディングを目指して遊ぶ、体験型のゲームみたいではないでしょうか?

 未来の私にとっては、シナリオはもちろんのこと、用意されたエンディングさえもわかっているのです。ただ、自分に合わせたエンディングがいくつか用意されていて、私以外の人がそれらのエンディングを迎えることが出来ないのは当然だとしても、今すでに存在している未来の私からすれば、どのエンディングを迎えるのが良いのかを知っているのです。

 

 だからでしょうか、「旅人が村に残すのは、未練ではなく思い出です」というセリフが私の心にささって、「あぁ、私がこの地上で残すのは、未練ではなく思い出なんだ。そういう生き方がしたい」と強烈に思ったのは。

 

 ということで、今回の話を終えたいと思います。


2025年2月3日月曜日

 

 昨日開催された「足立シルバーバーチ読書会」の報告です。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)三章 再生の原理」80ページ8行目から86ページ2行目までとなります。

 

 質問で、”愛と奉仕の生活”という言葉が出ています。

 昨日の読書会では、この”愛と奉仕の生活”というものは、具体的にはどのようなものなのでしょうか?という話が出ました。

 

 ある人は、マザーテレサのことを思い浮かべたそうです。そして、ある人は、親切な隣人の方の話を紹介されていました。さらに、ある人は、YouTubeでスピリチュアルの動画を出されている方の話をされました。

 

 ”愛と奉仕の生活”とはどのようなものかを考えた時に、私自身の生活を思わず振り返ってしまって、それとはほど遠い生活を過ごしているのを感じました。

 

 そして、ポジティブとネガティブの話も出ました。ただ、人によってどう感じるかの違いもあるでしょうし、時代によっても変わってくるでしょうね、ということでした。

 さらに自分自身も年月を重ねて、知識や経験が増すことによって、今とは違った視点を持つことだってあると思いました。

 

 それとその話の流れで、霊的成長ということについての話も出ました。

 

 ところで、”霊的成長”とは何ですか?と聞かれたら、みなさんはどう答えるのでしょうか?

 

 それこそ、答えは人それぞれだと思いますが、はっきりと”これだ”と言える人はそれほど多くはないと思います。

 

 霊的成長について、どこかに書かれていることを見て納得したり、誰かの話を聞いてなるほどと思って、それを伝えることは出来るとしても、自分自身で、”私にとっての霊的成長とは何であろうか?”と真剣に考える人は少ないように感じます。

 

 私は何となく、外から入った情報に合わせて自分を変えていくよりも、自分の内側から湧き出てくる導きの思いや良心に従って、より自分らしい自分になっていくことかなぁと感じています。

 

 さらに神についての話が出ましたが、神という言葉からは、どうしても人格神ということから抜けられないでいるという意見もありました。

 

 けっきょく、霊的成長の話も含めて、”愛”なのでしょうね。という話が出ました。

 

 今回は以上となりますが、まだまだ報告したいことが残っています。

 

 いずれ機会を見て、ホワイトイーグル読書会のことも含めて書きたいと思います。


2025年2月1日土曜日

 

 1月28日火曜日に、北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」が開催されました。

 

 使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」 第9章 愛の法則がすべてを支配 

 6.美と平和への信仰による調和の創造 7.全体の中の個人 8.おわりに となります。

 

 今回の読書会で、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」は終了となりました。

 

 ホワイトイーグル読書会に参加する前の仕事中に、インスピレーションがきました。

 

 それは次のようなものでした。

 

 私はこれまでずっと幸せを求めてきたけれど、もともとの私はとても幸せであって、その幸せをこの地上のみなさんと分かち合いたいがために生まれてきたのだと。ただ、それを忘れてしまっているだけで、どこにいても、どのような状況であっても、幸せであり喜びであるのだと。

 

 こんな感じのことが、すっと自分の中で広がっていったのです。

 

 ただ、今は時間が経つにつれて、いろいろと自分の未熟さがより感じられるようにもなって、はぁ~どうすりゃいいのでしょうか?という感じでもあります。

 

 読書会の内容については、後日、時間のある時に報告したいと思います。


2025年1月19日日曜日

 

 本日開催の「オンライン足立シルバーバーチ読書会」の報告をしたいと思います。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(九)一章 シルバーバーチはなぜ戻って来たか」20ページ8行目までとなります。

 

 シルバーバーチによれば、この地上世界はこれといって魅力のない世界であるそうです。しかも、念を押すように二度も言っているのを見れば、私たちがこの地上で生きることが辛かったり、つまらないと思ったり、嫌になったりするのはごく当然のことかもしれませんね。

 

 17ページ1行目、

 「私は霊界にある記録簿を調べ上げた上で、適当な人物を霊媒として選び出しました。」

 

 読書会での意見では、”適当”という訳し方が果たして良いのか?という疑問が出ました。たしかに、適当という言葉の意味は、”ふさわしい”とか”ちょうど良い”というものなのですが、一方で、”いい加減”という意味でも使われているからです。

 ここでは、”適切”と言う意味での適当な人物を霊媒として選び出したのであろうと受け取っています。

 

 それから、”霊界にある記録簿”ということについては、(どれくらいの規模の情報量なのかは知りませんが)霊界にそのようなものが存在していて、さらにそれを活用することが出来ることに驚きました。しかし、この地上世界で同じようなものがあるとすれば、悪用しようとする者がいるだろうなと思います。

 

 17ページ5行目、

 「私はこの霊媒の霊と小さな精神の形成に関与しました。」

 

 17ページ8行目、

 「次に私は霊的知識の理解へ向けて指導しなければなりませんでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。」

 

 「そして最終的にはそのすべてに反発させ、いわゆる無神論者にさせました。」

 

 「これで霊媒となるべき準備がひと通り整いました。」

 

 自分では気づかないとしても、スピリットの関与を受けることで、予定通りの人生を歩んでいけるのかもしれません。やはり私たちは、自分の自由意志で生きていると思っていても、いろいろな干渉や制限がある中で生きているのだと思います。

 

 それから、霊媒を”無神論者”にさせた意味は?という疑問が出たのですが、その霊媒がある特定の宗教を信仰したままでは、その宗教のカラーを通した(その宗教の影響がかかった)霊言となってしまうからでしょう。と答えました。

 

 実は、シルバーバーチ読書会に参加されている方の中には、かつて無神論者であった人もおられます。もっとも、今までの神と言われている存在の多くは、人格を持った神のことであり、神に祈ることで願いが叶ったり、災難や病気から逃れたり、苦しみを解消することが出来たりする存在です。

 さらに、そのような神への信仰心や忠誠心が深いほど、死後の世界で幸せになれると思っている人もいることでしょう。場合によっては、ある特定の宗教を信仰しながらも、シルバーバーチの訓えを取り入れながら生きていくことが出来るのかもしれませんが、両立するのは難しそうですね。

 

 19ページ1行目、

 「結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何者でもないということです。私が誰であるかということが一体なんの意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。」

 

 今回の読書会で面白かった話は、「シルバーバーチが実のところ”ナザレのイエス”だったら面白いですね。」というものでした。まぁ、それはないとしても、もしそうだったらと思うだけでも面白いと感じました。

 

 みなさんと話しあっているだけで、あっという間に終わりの時間を迎えてしまいましたが、次回も楽しく学んでいきたいと思います。

 

 今回は、以上となります。


2025年1月18日土曜日

 

 今月の北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」には、所用のために参加出来ませんでした。

 

 そのため読書会の報告は出来ませんが、今回は私なりに気づいたことなどを述べていこうと思います。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)三章 魂の自由と解放」となります。

 

 48ページ1行目、

 「私たちは時には冗談を言っては笑い、楽しい雰囲気の中で会を進めておりますが、こうしたささやかな集まりの背後に大きな、そして深刻な目的が託されております。」

 

 私は読書会を進めていくのに、この”楽しい雰囲気”がつくられるように心がけています。何故なら、それが大切だと感じるからです。

 しかも、”ささやかな集まり”と語られているように、こじんまりと目立たない読書会であるとしても、それはそれで何かしらの目的が託されているのだと思っています。

 そういう意味では、北神戸ぷちサークルが主催している読書会も、楽しい雰囲気で進められている”ささやかな集まり”と言えると思います。

 

 こうした会とは逆に、神聖かつ厳かな雰囲気をつくり、出来るだけ大勢の人が参加するような集まりを目指している会もあるかもしれません。

 

 48ページ10行目、

 「今では私の説く単純素朴な訓えこそ永遠の真理であることを得心しておられます。」

 

 私なんかが永遠の真理と聞くと、”悟りを得るための特別な教え”がどこかに存在していて、世界のどこかにいる聖者や賢者などに師事して得ていくものだと過去に思っていたことがあります。

 

 48ページ13行目、

 「霊的真理には一人ひとりの人間を束縛から解放する意図が託されているのです。」

 

 そういえば、宗教の教義と言われているものの中には、逆に人間を束縛していくものがあるようです。そのような人間を束縛してしまう真理とは、みせかけにすぎないものなのでしょう。

 

 48ページ14行目、

 「私どもの仕事はかならず一個の人間から始めます。人類全体も個が集まって構成されているからです。」

 

 まだ私が子供の頃は、神さまが一気に、この世界を良いものにしてくれたらいいのに、と何度も思ったことがあります。でも、そういう訳にはいかないのですよね。

 

 49ページ1行目、

 「大勢の人を一度に変えようとしても必ず失敗します。暗示が解け、ふつうの感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めた者は気恥ずかしささえ味わうものです。」

 

 そうですよね、私も霊的知識を得ることで何だか偉くなったような気がして、これで自分は他人よりも神に近づいたとか勘違いして、後になって気恥ずかしい思いをしたことがあります。

 

 もしかしたら、誰もが一度はそのような道をたどるのかもしれませんが、たぶん私に高慢な所があったので、そのような勘違いが生じたのでしょうね。

 

 49ページ4行目、

 「点滴岩をも穿つ」の譬えは、”努力を続ければ、やがて成功する”という意味になります。他にも同じような譬えで「ちりも積もれば山となる」がありますが、小さな力でも根気よく続ければ、やがて成功し、大きな成果が得られるといういうことです。

 

 たぶん、真理を悟るためには、一人ひとり、つまり、まずは自分からそのための小さな努力を続けていくことが大切なのだと感じました。

 

 今回はこれくらいにして終えたいと思います。


2025年1月13日月曜日

 

 引き続き、昨日開催した「足立シルバーバーチ読書会」の報告をしたいと思います。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)三章 再生の原理」75ページ5行目から80ページ7行目までとなります。

 

 78ページ9行目、

 「つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか、個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」

 

 この箇所は読書会の中でも注目されたのですが、改めて、シルバーバーチの説明の仕方に凄さと聡明さを感じました。個人的存在としての私たちと、個性的存在としての私たちとの違いを理解していくことで、霊の世界での私たちがどのような存在なのであるのかをイメージすることが出来るのではないのかと感じます。

 

 それから、個人的存在を特殊な表現形式と言うのですから、私たちが地上で生きることは、霊からすれば、個々が分離した特殊な状態であるのかもしれません。

 

 双子霊については、特に意見はありませんでした。たぶん、読んで”そうなんだ”という感じだと思います。

 

 80ページ2行目、

 ──物質界に誕生する霊としない霊とがいるのは何故ですか。

 

 「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても成長進化を遂げることが出来るのです。頭初から高級霊界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。」

 

 ところで、シルバーバーチの霊訓の他の個所では、私の理解不足があるのを前提として、霊が人間として生まれなければ意識がなかったり、個として存在しないと思わせる表現があったりします。

 もしも内容に違和感を感じた場合は、私はシルバーバーチが語る言葉を直接聞いたわけではありませんし、シルバーバーチが語る言葉を記録したものを、人を介してさらに日本語に訳して紹介されたものを学んでいるということを忘れないようにしています。

 

 それはそれとして、この個所を読んで、私が20代の頃からしばらく思ってきたことがあるので紹介したいと思います。

 

 私がシルバーバーチの霊訓を読む前の20代の頃からすでに、頭初から高級霊界に所属している神霊が存在しているという知識を持っていました。しかも、今、私がしているような地上での生活をしなくても成長進化を遂げられるということも知っていました。

 今はそんことはないのですが、その当時は、そのような神霊がとても羨ましく思いました。しかもその知識を得たことによって、神は差別をしていると思ってしまいましたし、神とは万人に公平ではなく理不尽であるとさえ感じてしまったのです。

 

 それ故に私の中での霊という存在が、最初からエリートの魂と一般の魂とで分かれて存在していると思ってしまったので、私はただの一般の平凡的な魂なのだなぁと一種のコンプレックスさえ感じてしまいました。

 

 特にその頃は、イエスキリストは唯一の神の子であると聞いていたので、イエスはエリート中のエリートの魂なんだぁと思っていました。そこまでいくと、さすがに羨ましいという思いはなくて、すごく大変そうだなぁと感じていたので、けっきょく私は、なるべく楽をしたり怠けていたいというのが本音だったのでしょう。

 

 今思えば、自分の中で知識と霊的成長のバランスが取れていなかったので、そのように感じてしまったのだと思います。霊的成長が追い付かず、授かる時期が早すぎた知識は、自分を歪め、ひねくれさせるのかもしれませんね。

 

 今では、”出来の悪い子供ほどかわいい”という言葉や他の人から聞いた話などを理由にして、”人間、70~80点の生き方で良い”と思うようになりました。

 

 たぶん、常に自分に対して100点を求めているような人は、自分のみならず、他人の間違いや失敗や欠点などが目に付くようになって、怒りや許せない気持ちが芽生えてくるかもしれません。自分や他人に思いやりを持ちたい場合は、常に100点を求めてしまう思考を変えた方が良いと思います。(私としては、人間として100点を取ることよりも、思いやりを持つことの方が大切だと感じています。)

 

 それから、必死になってアセンションを目指したり、5次元世界や新しい地球へ行こうと導いていくのが私の役目ではないようで、どちらかと言うと、少しでもみなさんから恐怖心や不安を取り除き、自分で自分を癒していけるような活動をしていくことが望まれているようです。

 

 シルバーバーチの霊訓を学んだあとの読書会の後半では、みなさんと”時間”について学んでいきました。

 

 時間とは、”現在から未来に向かって進んでいき、過ぎ去った時間が過去である”というのが一般的ですが、もう一つのとらえ方としては、時間とは、”時間の方からこちらにむかってやってくるものであり、つまり、未来から現在に向かって流れてきて、過ぎ去ったものが過去である”というものがあります。

 

 時間の流れの向きと恐怖心などの関係で言えば、少なからず、この時間の流れのとらえ方によって左右されていくものであると感じています。

  

 もしも自分という存在が、今後どのような道をたどっていったとしても、あるいは、どこまでも愚かであったとしても、結末は必ずハッピーエンドを迎えるのだとわかっていたらどうでしょうか?

 

 確かに、私たちが生きていく過程では、浮き沈みがあって、幸せな時もあれば不幸せな時もあることでしょう。しかも、時間が現在から未来に流れていると思っていれば、ここで”原因と結果の法則”を用いるまでもなく、自分が努力しなければ良い結果が得られないと感じるわけですから、真面目な人ほど恐怖心や不安を抱えてしまっているかもしれません。

 

 私たちは世界と共に、螺旋状、あるいは、スパイラル状に進化していく存在であると言われています。実際そうなのですが、短い期間ではそのような実感を得られないかもしれません。

 けれども私たちは、たしかに霊的進化をしている存在であって、そこに違いがあるとすれば、人それぞれの歩む道と歩む速度があげられますが、どうあがいても落伍者が出ないような仕組みになっていると感じています。

 

 そして私たちに向けて、時間の方からやってくると思えれば、どうやっても私たちは”ハッピーエンド”を受け取ることしか出来ないと思えるでしょう。

 

 それでは、これで終えたいと思いますが、”なぜ時間が存在しているのか?”あるいは、”過去を変えることは出来るのか?”などのテーマについては、次回の読書会で扱いたいと思います。

 

 以上となります。


2025年1月12日日曜日

 

 本日開催した「足立シルバーバーチ読書会」の報告です。

 

 使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)三章 再生の原理」75ページ5行目から80ページ7行目までとなります。

 

 75ページ5行目、

 ──霊にいくつかの側面があり、そのうちの一つが地上に生まれ、残りは他の世界で生活することもありうる、という風におっしゃいましたが、もう少し詳しく説明していただけませんか。

 

 この質問者の内容からは、地上に生まれた自分以外にも、他の次元で生きている自分が存在しているのだと受け取れます。

 

 果たして、そんなことがあり得るのでしょうか?

 

 きっと、シルバーバーチの霊訓を学んできた方には受け入れることが出来ても、世間一般の人に同じことを言えば、もしかしたら、狂っているとか、とてもおかしな奴だと思われるかもしれません。

 

 それでも読書会の中では、これらのことについていろいろと話し合うことが出来るのでありがたいと思っています。

 

 76ページ6行目、

 「霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性をもっています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。その霊にいくつかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。」

 

 現実のスピリチュアル界隈では、かつて地上に誕生した偉大な人物の生まれ変わりであると主張している人も多いようなのですが、根源(大霊)から直接来たと主張している人もいるそうなので、私はそれらの話を聞いているだけでも面白いなぁと思いました。そのように話す人が本気でそう思って言っているのか、あるいは、何かしらの利益を求めてそう言っているのか、その人の動機の方に興味を持ちました。

 

 それはともかく、どの次元とかはわかりませんが、名前を必要とする段階の存在は、その霊の一側面である自分以外の側面が、まだみえていない状態であるように思われます。

 とは言え、今の私たちの段階では、名前を使わずに交流することが出来るとは思えないですよね。

 

 それから名前をつけるということは、無限の状態を制限し有限化することになると思うので、私はあまり名前にこだわるような気持ちを持てません。むしろ、今の私と言う存在から自由になって、無限の可能性というものを味わってみたいのです。

 

 (この続きは明日以降に書きたいと思います)