2022年1月7日
送信者: waka
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新しい年を迎えて
今回は、『シルバーバーチの霊訓(十二)』で、最初に語られている言葉を紹介したいと思います。
一章 霊団の使命
(1)私たち霊団の者も皆さんも、ともに大霊への奉仕者です。ただ私たちは皆さんよりホンの少しばかり先を歩んでいるというに過ぎません。そこでこうして引き返してきて、これまでに学んだものの中から皆さんのお役に立つものをお分けしようというわけです。お互いに扶助し合うということが生命の根本原理だからです。互助の精神のないところには荒廃があるのみです。互助の精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界はその互助の精神によって新しい社会を築かないといけません。原理はいたって簡単なのです。人間がそれをややこしくしているのです。
扶助とは、たすけること。力をそえること。を意味し、互助とは、お互いに助け合うこと。を意味しています。
ここでは、生命の根本的な原理は、お互いに助け合うことだと語られています。今後、この通りに、より多くの人たちが生きていくことが出来れば、今よりもっと幸せな世界になると感じます。
でも現実には、多くの人がその反対の生き方になっているように見受けられます。たぶん、その簡単な原理がややこしくなってしまって、わからなくなっているのでしょう。
今年は、そのシンプルな教えを日常に活かして、生きていきたいと思っています。
2022年2月23日
送信者: waka
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今回は、「現実世界で起こることを、私たちが寝ている時に、事前にどのように霊たちと打ち合わせをしているのか?」について、私が女性参加者の方から聞いた話をしたいと思います。
ところで、私がこの足立シルバーバーチの会を開催し始めた頃に、足立の霊団の方から、「いずれ霊視の出来る女性の助力がある」と伝えられていました。
そういう訳もあって、今、私ではわからないことをいろいろと学ぶことが出来て、その体験を少しづつみなさんに伝えることが出来るようになりました。
その女性の方を、MIYUさん改め、みゅうさんと呼ぶことにします。そうした方が良いようです。
と、その前に、この話をするまでの経過をしたいと思っています。
以前、私は読書会の場で、「みなさんが初めて読書会に参加する場合にも、偶然に読書会に参加しているのではなく、事前に霊の世界で打ち合わせをしているのですよ」と語ったことがあります。
ただ、私がそう感じ、そのように思えているとしても、具体的にどのように打ち合わせをしているのか?については、わからないというのが正直な所です。
シルバーバーチの霊訓でも、睡眠中に霊界を訪れ、さまざまな人たちと会っていることが語られています。
私事で言うと、私が物心についた時から、母が夢の中で誰々に会ったとか、どこどこに連れていかれたとか話していて、今でも覚えているのは、私が5歳くらいの時に、母の夢の中で父が勤める会社の同僚が出てきて、家の前にある荒川土手の河川敷まで引っ張られてしまったそうです。そして、ここで自殺をしたと伝えられたそうです。
私の母は、時々、ヒステリックに叫ぶときがあり、周りの大人たちは、(環境の変化と育児による)ノイローゼだろうと言っていました。翌朝に母が語った夢の話も、たんなる妄想だろうと、父は思っていたようでした。
その後、アパートの大家の所へ、父宛てに電話がかかってきました。(まだ家に電話がなかったみたいです。)
その夢の中に出てきた父の同僚が、母が連れて行かれた場所と同じ、荒川土手の河川敷で亡くなっているのが見つかって、何か事情を知らないだろうか?という確認の電話だったそうです。やはり、自殺だったそうです。
その他にも、夢の中でいろいろ見せられたり体験をさせられたり、実際にいろいろ怖い目にあったり、したそうです。ただ、母にはそれを理解しようとか、霊的知識を身に付けようとかの意識はなかったようで、不思議な体験の数々をしただけのような感じです。
このような母の下、小学生になるまで、一家四人で六畳一間という部屋の中で一緒だったので、自分ではわかりませでしたが、世間からは相当ズレた人間だったのかもしれません。
その頃、私が見た夢は、暗い山や森の中で、お化けからひたすら走って逃げているものでした。からかさ小僧やろくろ首、のっぺらぼうなどが出てきて、40数年経っているのに、妙にリアルで、未だに覚えている明晰夢の一つだと感じています。
それでは、「現実世界で起こることを、私たちが寝ている時に、事前にどのように霊たちと打ち合わせをしているのか?」について聞いたことを語りたいと思います。
ワードの「死後の世界」に出てくる「夢の国」と同じ世界なのかはわかりませんが、地上の人間と霊の世界の人間が会うことが可能な世界が存在しているようです。
その世界は、宇宙としか表現出来ないようでした。自分の視点に意識をすると、自分のまわりには、何人もの人たちがいて、一つのグループを形成していました。
そして、自分以外の視点に意識をすれば、この宇宙の中には、いくつものグループが形成されていて、そのグループの中の一人だけ、足元から下に光線が伸びているということです。
どのグループにも、一人だけ足元から光線が出ていることが確認できたそうです。足元から光線が出ているのは地上世界の人間で、その光線とは、シルバーコードと呼ばれているものだと思われます。ということは、足元に光線が出ていない人間は、霊の世界の住人であるので、地上的に言えば、こちらの人かあちらの人かは、足元を見ればわかるようですね。
グループについて言うと、すでにみゅうさんの他界した父親が、そのグループのメンバーとして、大体において参加しているそうです。そして、必要な時には、昨年他界した息子さんがメンバーとして参加する時もあるそうです。
みゅうさんに、グループの打ち合わせに参加して下さいと言われたのですが、私は「わかりました。出来ればね~」と、だけ答えました。
私は、ほぼ毎日のように夢を見ているのですが、私の場合は、本当に取るに足りない、どっちかというと、下らない場合が多いので、みゅうさんのような綺麗で楽しい夢の体験ではないし、ちりりんさんの読書会に参加されているIさんもとても綺麗な睡眠中での体験ですので、まるで私の心がどれだけ汚れているのかを自分で確認しているようです。
それはそれとして、みゅうさんの父親と息子さんは、みゅうさんとコンタクトが取れるようになったことがとてもい嬉しいそうです。ところで、私がみゅうさんのグループを、本当に『みゅう霊団』と、そのまま私が名付けてしまったのですが、それで良いみたいですのでそう呼ぶことにしました。私の方は、そのまま『足立の霊団』って、ことで良いみたいです。
まだまだ先の話ですが、今後、足立やちりりんさんの読書会でそれぞれ学んだことや、直接スピリットたちから学んだことも含めて、まとめて整理し、みなさんに役立つようにしていくことを求められています。
自分を救うことが出来るのは自分だと思いますので、そのために必要な知識と霊力が得られるような、そんな活動を続けていきたいと思っています。
そのために紹介した話が、シルバーバーチの霊訓に出会うために、霊の世界でも努力してメッセージを送っていることや、会などの名称を付ける場合も、それなりの意味が込めてあったり、霊のグループの中での打ち合わせがあるなどでした。
また、人のために役立つことをしようとするときには、内からの光と外からの光の融合という形で見られ、その反対の時には、外からの光はサッと引いてしまうというのも、霊の世界からの学びの一つとなっています。
特に、霊のグループでの打ち合わせは、地上で霊的に目覚めた人とそうでない人とでは、異なっている可能性があります。少なくても霊的に目覚めている人にとっては、そのような形で行われているということが理解出来ます。
最後に、これらスピリットからの直接的な教えは、その教えを受けた人のフィルターを通したものですので、そこを理解して読んでもらいたいと思います。ですから、ここで伝えていることが絶対だとは言いませんし言えません。それでも、みなさんの何かしらお役に立てるなら幸いです。みゅうさんも、そのために霊の世界から助力してもらえるのだと話されていました。
今回は、以上となります。
2022年2月12日
送信者: waka
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昨日のちりりんさんのシルバーバーチ読書会を終えて、私なりに思ったことがあります。
今回は、私が体験したことを交えて述べていきたいと思います。
まだ、私が三十代前半の時のことですが、自分の愚かさと不注意によって事故を起こし、左側の肩甲骨が骨折しました。そのため左腕が上がらなくなって、病院のベッドに15日間身動き出来ないように拘束されました。
さらに、このまま仕事を失うかもしれない、買ったばかりの家も失うかもしれないという恐怖の日々を耐え続ける日々が続きました。そして退院してからは、家族みんなが精神的に追い詰められ、精神が病んでいき、とうとう家庭が崩壊しました。
そして私は、まだ幼い二人の子供を抱えながら、先行きも見えないままに、シングルファザーとしての苦難の人生を歩むことを余儀なくされてしまいました。これが私にとっては、人生のどん底だったと感じています。
そのようなどん底に落ちる前から、シルバーバーチのことは知ってはいましたが、当時は、シルバーバーチから学ぼうとは思いませんでしたし、インディアンから教えてもらおうとは思っていませんでした。(もっとも、シルバーバーチは、インディアンではないのですが…。まだ、インディアンの肖像画をシルバーバーチ本人であるとして紹介されていたりします。)
他人に話すのはこれが初めてですが、私が幼少の頃、母が女性のインディアンとして見えていました。何でインディアンなのだろうとずっと不思議に思っていました。けれども、インディアンは未開人で野蛮で悪い人間だと聞かされていたので、ずっとそのことを誰にも話してこなかったですし、それを口に出すことは恥だとも思っていました。
それでも人生のどん底に落ちて初めて、インディアンであると思っていた……、シルバーバーチという霊の語る言葉によって、自分が救われていくのがはっきりとわかりました。
私の心の中で、「だって、最低まで降りたのだから、あとは最高のものを得るまで上がっていくだけだよね。いろいろあっても、紆余曲折だったとしても、あとは上がっていくだけだよね」って思えたんです。
それまでは、自分の未熟さや愚かさで起こしてしまった事故によって、家族や周りのひとたちを不幸のどん底に陥れた「出来損ないの人間」であると思って生きてきました。 後悔の思いに支配されていました。
そして、「自分の蒔いた種が悪かったのだから、このような人生になったのだ」と、それまで学んできたことによって、さらに自分を追い込んでしまったように思います。
その一方で、「ずっとずっと神を信じて、霊の世界と共に生きてきたはずなのに、ずっとずっと一生懸命に生きてきたのに、何なんだよもう……。」と、世界を呪っていたことも事実です。 こんな自分を助けて欲しいと、誰かに甘えたい気持ちもずっとありました。
きっと、みなさんは、人生のどん底にいる人に対して、それは「原因と結果の法則ですから、あなたが悪いのです」とは、言わないと思います。
けれども、人生のどん底に落ちる前の私は、言い方はともかくとして、それを相手に言える人間でした。盲目的でしたし、何よりも霊的な真理を優先して、霊的成長をしていくことが人間としての善であり、その善を、他人にも実践させていくことが正義であると、固く信じていたからです。
その結果は、先に述べた通りに、人生のどん底に落ちることとなりました。今になってわかったことですが、ずっと自分が利己的であることに気づかなかったからです。自分を改めるチャンスは何度もありましたが、どうしても、利己的な自分を変えることが出来ませんでした。
ところで、人間の生き方として正しいとされることで、利他的なこと、神の御心にかなうこと、人の役に立つこと、霊的な成長に貢献することなど、この他にもいろいろとあると思います。
けれども、そういう正しい生き方をしようと思った自分の本当の動機には、意外と気づけない方が多いと思われます。
繰り返しになると思いますが、私は自分の動機に気づけぬまま、正しいと思われる生き方をしてきてしまいました。
その動機とは、「常に自分が上の立場でありたい」というものでした。さらにその奥には、「常に自分が人よりも幸せでありたい」というものがが隠れていました。どんなに今まで反省を繰り返してきても、自分の表面の意識では探すことも理解することも出来ませんでした。
今、ちりりんさんが述べられたことを思い出しましたが、一見、素直で真面目な人であっても、シルバーバーチの霊訓を間違って覚えてしまう危険性もあるのではないのか?と、思いました。
もっとも陥りやすい間違いだと私が思うことは、「心の中では、まるで自分だけしかいない世界の中で生きているのに、シルバーバーチの教えが霊の世界での地位を高めてくれるのを知っているから、シルバーバーチの教えを実践しようとしていること」です。
そのことに本人が気づいていない場合、特に他人との関わり合いの中で、いろいろと問題が出てくると思われます。
つまり、霊的知識を得ることによって、表面を利他的な愛で着飾っていても、自分の中に隠れている利己的な部分はそのままになっている場合があることに、本人はまったく気づけない場合があります。
このような利他的だと思っている利己的な人間が集まれば、おかしなことになってくるのは当然のことだと思います。私がそうでしたから……。
もしもあの時、私がどん底に落ちないで、そのまま霊の世界に行くまで自分の利己的な部分に気づけないとしたら、それこそが本当の不幸であると感じています。
自分が正しいと信じて疑わず、自分の間違いに気づかず、さらに、間違いに気づかせてくれる人もいなかったとしたら、霊の世界と共に生きている私としては、それこそが本当の不幸なことである。と、そう思ってしまうのです。
そうは言っても、相手の霊的成長を心の底から望んで関わり合う覚悟がなければ、いつしか批判が非難となって、相手を責め立てることになってしまい、新たな問題や争いを生み出す結果になるかもしれません。
他にも、シルバーバーチの霊訓を間違って覚えてしまう原因として、次のようなことがあります。
たとえば、人の役に立つことが大切だと思っていても、自分だけが一方的に与えることで良いように受け取ってしまうことです。
さらに、宇宙は一つで、生命も一つなのだから、自分が他人に良い事をすれば、それは自分にすることと同じなのだから、自分が蒔く種をしっかりと良いものにすれば良いのだ。と、このように理解されている人もいると思います。
これが別に間違っているというわけではなく、ナザレのイエスの時もそうですが、シルバーバーチは、たった一人の特別な人のために霊的真理を語っているのではなく、兄弟姉妹のみなさんに向かって語っているのだということです。
それが理解出来れば、シルバーバーチが語るサービスとは、「人の役に立つことを、お互いにしていきましょう。」ということになります。
今まで私が教わってきたことは、ナザレのイエスからは、愛を分かち合うことの大切さであり、シルバーバーチからは、お互いに助け合うことの大切さです。
そして、それらの障害となっている利己的な自分を改めつつ、お互いの霊的な成長を通して幸せを追求していきましょうというものです。
これを、みなさんでやっていきませんか?と、語られているのだと、私には感じられます。
最後に、シルバーバーチの霊訓では、シルバーバーチが「私のことを、あなた方の兄と思ってください。」と語っているところがあります。また、ナザレのイエスなら、きっと、「親友のように思ってもらいたい」と語るのではないのかと感じています。
そのような兄であるシルバーバーチが、私たち兄弟姉妹の幸せを無視して、「私たちに変わってくれ」と要求しているとは思っていません。愛があるから、厳しいことも伝えなければならないのだと、私には感じられるのです。
今回は、以上となります。
2022年2月13日
送信者: waka
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昨日、私がわからなかったことを、寝ている間に教えてもらいました。
以下の『その動機とは、「常に自分が上の立場でありたい」というものでした。さらにその奥には、「常に自分が人よりも幸せでありたい」というものがが隠れていました。』という所ですが、
何故、それがいけなかったのか?が、私にはあまり理解出来ませんでした。
今朝、わかったことは、「他人と比較して得る幸せとは、他人を犠牲にして成り立つのではないでしょうか?
比較するなら、他人ではなく、今の自分にするのが良いと思います。
みんなの幸せを願っている人間が、みんなより上になりたいとか、幸せになりたいとか思っているのは、矛盾していると思います。
本当にみんなの幸せを願っているのなら、そのような自分を犠牲にしなければならない。
私がそこで自己犠牲という言葉を使うのは、おかしいでしょうか?」 というようなものです。
そして、「他人の幸せを願っていて、心の底では、その人たちよりも幸せでいたいと思っている。
他人の幸せを願いながら、自分を犠牲にするのは嫌だと言っている。
それでは、人間関係に問題が出てきてもおかしくないでしょうね。」
実際に言葉で話してくれるわけではないので、私のフィルターを通した解釈となります。
これが、みなさんにとって、何かしらの参考になれば良いと思っています。
以上となります。
2022年2月16日
送信者: waka
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今回は、以前のお知らせで「シルバーバーチの霊訓(二)十四章 シルバーバーチの祈り」について書かせてもらいましたが、後日、私の認識が浅いのではないか?と、霊の世界から伝えらてきました。そこで、もう一度改めて読んでみました。
シルバーバーチの祈りの最後に、「ここに、ひたすらに人類のためをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。 シルバーバーチ」と書かれていました。
私は、シルバーバーチがインディアンではないことを理解しています。が、ここでは、インディアンとして祈っていることを見落としていました。
私なりに、他の「インディアンの祈り」を調べてみました。そうしたら何と、インディアンの祈りの中で、グレート・スピリット(大霊)という言葉が出てきました。
今まで、アメリカインディアンの教えやネイティブインディアンの言葉を見たり読んだりしたことはありましたが、「インディアンの祈り」については、知りませんでした。
ウィキペディアなどで調べてみると、アメリカ・インディアンのスー族にとっての創造主、宇宙の真理、大いなる神秘のことを「ワカン・タンカ(Wakan Tanka)」と呼び、それを英語にすると「グレート・スピリット」となるようです。
さらに、ウィキペディアから一部を引用すると、この「大いなる神秘」の概念は「宇宙の根本原理」であり、キリスト教のような人格化された存在ではなく、偶像も存在しない。
「宇宙の真理」、「創造主」である「ワカン・タンカ」には始まりも終わりもなく、この「大いなる神秘」のもとで「二つ足も四つ足も、石も草も木も」すべてが平等である。インディアンの精神世界では、人間以外のものを呼ぶ際も、「熊のひとたち」、「石のひとたち」、「鳥のひとたち」といったふうに呼ばれ、人間も人間以外のものもはっきりと区別されない。
ワカン・タンカ(大いなる神秘)のもとではすべてが平等な存在であり、キリスト教の神であっても、インディアンと対等な存在となる。19世紀のインディアンが残した言葉に、次のようなものがある。「白人は教会でイエスについて話すが、我々インディアンはティーピー(インディアンの移動用住居のひとつ)でイエスと話をするのだ」。と、あります。
だから、シルバーバーチは、はじめはインディアンとして現れたのかもしれない。と、今さらながら理解しました。
これ以上、ここで書かなくてもお分かりの通り、みなさん、私の勉強不足と認識不足でご迷惑をおかけして申し訳ありません。(もちろん、シルバーバーチに謝りました。それと、大霊と私を導いてくれているスピリットたちに感謝をしました。)
このように、私は読書会を開催させていただいていますが、みなさんと共に勉強をさせてもらっている立場であることを、改めて痛感しました。
ところで、私はいつ勉強をしているのか?と、良く聞かれるのですが、仕事の合間に本を読んだり、寝る前や休みの日に勉強したりなど、みなさんとあまり変わらないと思っています。
それ以外は、睡眠中に勉強させてもらったことを、「内なる思いの塊」として受け取って、それを解読していく感じの勉強方法を取り入れていることくらいだと思います。
そして、私が感じているのは、霊の世界の人も、私と一緒に勉強しているようなのです。ですから、学びの段階も私の成長にあったものとなっているようです。
ですから、私よりも霊的に成長されている方の学びは、もっと高度なものであり、より真実に近いものであると思っています。私と一緒に学ぶのは、霊的知識を学び始めたばかりの人たちには良いかもしれません。
今回のことで、日々、自分としては、霊的知識を一生懸命学んでいても、認識不足や間違いが起きてしまうことが多々あることを知りました。いや、気づかせていただいたという方が正解かもしれません。
最後に、独り言を……。
見えないけど、一緒に学んでいる霊たちがいるんだな~って、本当に思えるのです。不思議ですよね。
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2022年5月29日
送信者: waka
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今回は、ちりりんさん主催のシルバーバーチ読書会の場で、何度か出された疑問や問題について考えていきたいと思います。
そこで出された問題の一つに、「このままシルバーバーチを学び続けていくと、高慢で冷たい人間になってしまうのではないのか?」と、そのような懸念がありました。
それで私も、そのような話を聞いてからしばらくの間、いろいろと考えたり思いを巡らせてきたのですが、他を下げて自分を高めるような姿勢を持っているとのことで、到底、それに対しての良い答えが得られませんでした。
そこで、今朝、自分を振り返るためにも、荒川土手に行って瞑想をしました。何故か手には、シルバーバーチの霊訓(五)を携えて……。
そこでわかったことは、読書会で出されたそれらの問題を、直接解決するような答えを得られたわけではありませんが、ヒントを得ることが出来ました。
最初に感じたことは、「他の人間や組織のフィルターを通して、シルバーバーチを見ていませんか?」ということでした。
シルバーバーチの霊訓(五)三章 死後の後悔 で、次のような文章があります。
「私はこれまで何度か地上で教会の中心的指導者として仰がれた人たちに付き添って、かつての信仰の場、大聖堂や教会を訪ねてみたことがあります。彼らはこちらへ来て誤りであることを知った教義がそこで今なお仰々しく説かれ続けているのを見て、そうした誤りと迷信で固められた組織を存続させた責任の一端が自分達にもあることを認識して悲しみにうなだれ、重苦しい思いに沈みます」
───針のむしろに座らされる思いをさせられることでしょう。
「罪滅ぼしなのです。それが摂理なのです。いかなる大人物も自分の犯した過ちは自分で責任を取らねばなりません。各自が自分の人生への代価を自分で支払うのです。収支の勘定は永遠の時の流れの中で完全な衡平(ツリアイ)のもとに処理され、だれ一人としてその法則から逃れることはできません」
これを読むと、シルバーバーチも霊の世界で奮闘されてきたことがわかりますが、それによって自らの地位を高め、人々に崇めさせようとする思いは、露ほども私は感じられません。
次に、四章 軽蔑と嘲笑の中で で、次のような文章があります。
「私たちにとってスピリチュアリズムというのは宇宙の自然法則そのものなのです。」
「これを体系化して幾つかの信条箇条とすべき性質の教えではありません。」
「キリスト教とて頭初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし仏教もそうです。その他地上に誕生した宗教の全てが最初はそうでした。」
この続きは、実際にシルバーバーチの霊訓を読んでもらいたいのですが、シルバーバーチが体系化せずに、それぞれの方に合わせて語っている理由が見て取れるのではないかと思われます。
続いて、「霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。」
「ご承知のように私は常に、一人でも多くの霊媒が輩出することの必要性を強調しております。霊界からの知識、教訓、愛、慰め、導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊媒が必要なのです。一人の霊媒の輩出は物質的万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。」
シルバーバーチは、このように霊媒の必要性を強調されています。もっとも、インチキ霊能者は論外ですが……。
もしも、シルバーバーチが語ることと違うことをしたいなら、スピリチュアリズムを体系化して幾つかの信条箇条とすれば良いと思います。さらに霊媒を否定し、かつてのキリスト教のように、それを悪魔の仕業だとして排除すれば良いと思います。
最後に、今まで述べたことは、スピリットの助力を得て導き出された私の一意見でしかありません。ですから、私の意見が至らなかったり、間違っていたりすることもあると思います。
それでも私は、シルバーバーチの霊訓を通して、逆に迷いや悩みを抱えることになった仲間のためになりたいと思って、今回、このようなことを書かせてもらいました。
今後も、このような疑問や問題を、みんなで協力して解決していければ良いと思います。
2022年6月4日
送信者: waka
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最近、みゅうさんに、私のチャクラの調整を夢の中でしてもらっています。
第4チャクラと呼ばれているハートの部分が、私の場合、だだ漏れ状態だということで、他のチャクラとともに、度々調整されているそうです。
自分でもそれを感じていましたが、私は勘違いして、愛が外にも溢れていた方が良いと、ずっと思っていました。
みゅうさんによると、スピリットの方も心配されていたようで、そのためなのか、食事だけでは足りずに、甘いものが食べたくて仕方がありませんでした。
それが、チャクラを調整してもらってから嘘のようにおさまったので、自分でもビックリしています。ありがたいことです。
私は、チャクラについて詳しくありませんが、見えない部分の不調和が、自分に現れてくるということがわかりました。
やはり、バランスが大切なんですね。
今までいろいろな機会に、愛と調和が大切だと聞いていましたが、私にはあまり理解出来ていなかったようです。
愛と調和を、それぞれ個々に考えるのではなく、同時に考えた方が良いみたいです。
それにしても、霊の世界からは、私の体が透けてチャクラが見えたり、オーラによって丸わかりだったりするので、もう大分慣れましたけど、ちょっと恥ずかしいです。
霊能力って、いろいろあるんだな~。役にたつんだな~。と、感心していますし、感謝しています。
いつか機会があれば、またいろいろな経験を、物語にして伝えられたら良いと思っています。
2022年9月1日
送信者: waka
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みなさんと読書会で、テキストの「シルバーバーチの霊訓(三) 四章 誰にでもわかる真理を」について学ぶ前に、足立の読書会ではどのような学び方をするのだろうか?」ということについて、伝えたいと思います。
ここでは、「宗教の本来の目的は人間の霊性に関わっているのです。そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきかを説くのが宗教の次の仕事です。」と、シルバーバーチは語られいます。
宗教の目的が人間の霊性に関わっていることは、シルバーバーチを学んできた方なら理解できると思われますが、「霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきか」については、それほど理解されていない方が多いのではないかと感じております。
また、「それまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。」と、この章で語られています。
さらに、「不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。」とも語られています。
今までの私は、シルバーバーチの霊訓を学んで、キリスト教や他の宗教の間違いを訴え、自分たちの主張の正当性を広めていくのが正しいと思ってきましたが、今はそう思ってはいません。
私の中でのそれは、自分が満足するための仲間作りをしているように感じられました。ただ、それが悪いとも思いません。
ところで、キリスト教の人口は、世界で約23億8千万人もいるそうです。世界の人口の約31%が信仰している宗教だそうです。
この人数の中には、形だけの人も多いかもしれません。もしかしたら、強制されている人も多いかもしれません。それでも何故、これほどキリスト教を信仰している人たちが多いのでしょうか?
次の五章では、「───おっしゃるような生き方ができなければ、スピリチュアリズムも既成宗教と同じように失敗に終わることになるわけですね。」との質問に、
「その通りです。必ず同じ運命を辿ります。」と、シルバーバーチは答えています。
私は、今のスピリチュアリズムの流れを見ると、やはり、今までの宗教のように同じ運命を辿るように感じています。
それで、先月8月から私に与えられた課題があります。
シルバーバーチの霊訓をキリスト教や他の宗教を信仰している人たちに受け入れられるために、他の宗教と対立や分断をするための学びを説くのではなく、協調するために学び、それを説いていきなさい。という課題です。
シルバーバーチ読書会を開催しているのに、その課題や考えはおかしいのではないか?と、思われる方もいると思います。
それでも私は、足立の読書会を導く霊団を信じ、その道具、その一員として、足立シルバーバーチ読書会を開催していきます。
waka (木曜日, 22 9月 2022 18:01)
私は今まで、洗礼のことを、バプテスマではなく、パプテマスだと思っていました。
私は、子供の頃、とてもガンダムが好きで、Zガンダムのパプテマス・シロッコは、ずっと洗礼を受けていた人だと思っていました。
とんでもない妄想でしたが、恐るべしガンダムと、勝手に言い訳をしております。
洗礼は、バプテスマが正しいです。
私が書く物語には、こういう私自身の思い込みが込められているときがあります。
その時は、後々、修正することになると思うので、申し訳ありません。
それをご了承して頂いて、みなさんに読んでもらいたいと思います。
2022年9月1日
送信者: waka
コメント:
足立の読書会ではどのような学び方をするのだろうか?ということについて、伝えたいと思います。
ここでは、「宗教の本来の目的は人間の霊性に関わっているのです。そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきかを説くのが宗教の次の仕事です。」と、シルバーバーチは語られいます。
宗教の目的が人間の霊性に関わっていることは、シルバーバーチを学んできた方なら理解できると思われますが、「霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきか」については、それほど理解されていない方が多いのではないかと感じております。
また、「それまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。」と、この章で語られています。
さらに、「不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。」とも語られています。
今までの私は、シルバーバーチの霊訓を学んで、キリスト教や他の宗教の間違いを訴え、自分たちの主張の正当性を広めていくのが正しいと思ってきましたが、今はそう思ってはいません。
私の中でのそれは、自分が満足するための仲間作りをしているように感じられました。ただ、それが悪いとも思いません。
ところで、キリスト教の人口は、世界で約23億8千万人もいるそうです。世界の人口の約31%が信仰している宗教だそうです。
この人数の中には、形だけの人も多いかもしれません。もしかしたら、強制されている人も多いかもしれません。それでも何故、これほどキリスト教を信仰している人たちが多いのでしょうか?
次の五章では、「───おっしゃるような生き方ができなければ、スピリチュアリズムも既成宗教と同じように失敗に終わることになるわけですね。」との質問に、
「その通りです。必ず同じ運命を辿ります。」と、シルバーバーチは答えています。
私は、今のスピリチュアリズムの流れを見ると、やはり、今までの宗教のように同じ運命を辿るように感じています。
それで、先月8月から私に与えられた課題があります。
シルバーバーチの霊訓をキリスト教や他の宗教を信仰している人たちに受け入れられるために、他の宗教と対立や分断をするための学びを説くのではなく、協調するために学び、それを説いていきなさい。という課題です。
シルバーバーチ読書会を開催しているのに、その課題や考えはおかしいのではないか?と、思われる方もいると思います。
それでも私は、足立の読書会を導く霊団を信じ、その道具、その一員として、足立シルバーバーチ読書会を開催していきます。
waka (木曜日, 29 9月 2022 07:27)
最近、私が良いな~と感じた言葉があります。
「知識は愛を通してやってくる」
非常に辛く、苦しく、悲しい経験を経て、シルバーバーチの霊訓と出会った人もいると思います。
霊的な知識を得るのにも、その知識が『愛』を通して来たものかどうかも、大切だと感じています。
waka (木曜日, 13 10月 2022 22:41)
『シスター・エリスの物語』は、前回のお知らせのような、私の思っていた内容には進まないようです。
前回のお知らせの「時間や空間、あるいは、カルマについての話」は、どうやら私の感覚では、シスター・エリスたちとは違う方たちの話のようです。
シスター・エリスの物語は、神と人との関係は、切り離された別々の存在ではなく、人は神と同じ根源とし、神の一部としての存在であり、それ故に神の子と呼ばれていること。
そして、そのような内側からの理解を通して、自分の中に巣食う、支配されているという恐怖を消し、お互いに愛を分かち合えるようになって欲しいこと。
そのような願いが、物語に込められています。
今回の物語は、「シルバーバーチと白樺の木」です。
以前に、インスピレーションが来ていたものを、改めて物語にしたものとなります。
興味がある方は、読んでみて下さい。
waka (月曜日, 17 10月 2022 21:36)
物語の『マシューの夢と神の片割れ』を書き終えて、瞑想をした後、一つ気がついたことがあります。
自分の中に神が存在するならば、自分の中にこそ、世界が存在しているのではないだろうか?と。
ところで、シルバーバーチは、「霊的真理を手にした者が恐怖を抱いてはいけない。」というようなことを語られていたと思います。
たぶん、私のような、心の底から霊的真理を理解するまで時間のかかる人には、ちょっと厳しい意見かな~と思ってしまいます。
私自身、物語を書き終えるまでは、内容が呑み込めていない場合もあります。しかも、私の能力の低さから、書き終えた後も、オッケーが出るまで何度も修正させられることもあります。
そのため、特に『神の子と神の一部』の物語は、最初に公表したものと今のものとでは、所々違っていますので、ご了承下さい。
waka (火曜日, 25 10月 2022 10:59)
言葉について、
シルバーバーチの霊訓では、私たちの存在を、『神の一部』と言う言葉で表現されています。
その言葉から受けるイメージにより、先月、読書会に参加されている女性の方が、「どうしても自分と神とは別々の存在に感じてしまう。」と話されていました。
そこで、『神の一部』と言う言葉を、私たちの存在は、『神の焦点の一つ』である。と言う言葉で表現させてもらうことにしました。
きっと、どのような言葉を使ったとしても、不十分であると思われますが、私たちは、このようにして、シルバーバーチの霊訓を理解して役立てて行きたいと思っています。
waka (火曜日, 01 11月 2022 07:33)
今朝、不思議な体験をしました。
仕事前に、組合の書類の整理をしたかったので、いつもより10分早く家を出ました。
すると、地元のミニストップで売られている「きな粉パン」が、とても食べたくなったのですが、そのためには、寄り道をしなければならないので諦めました。
けれども、ミニストップの近くの道を通り過ぎて、今、きな粉パンを買わないと後悔するという思いに包まれて、結局、ミニストップに行ったのです。
そこで、同級生とばったりと会ったのです。
彼は、千葉の現場へ車で行く途中で、ミニストップに寄ったそうです。
もう、彼とは4~5年以上会っていなかったけれど、10年以上前には、家に何度も泊めたことがあったので、「今頃、どうしているかな~」と、度々思っていました。
さらに、小学校から一緒だった同級生の消息も知ることが出来て良かったです。
今さらながらも直感って、大切にした方が良いと思いました。
たぶん、みなさんにもこういう体験があると思いますが、偶然のように見えて、そうではないのでしょうね。
waka (月曜日, 07 11月 2022 19:03)
今回は、私のひとりごとです。
足立の霊団、特にその中のシスターたちは、読書会だけに限らず、ヒーリングにも力を入れて下さっていますが、それ以外にも、夢を通じて精神的に悩んでいる方の傍に寄り添って話をされたり、読書会に参加されている方の夫が他界された時には、その夫を導いて、みゅうさんに伝えてくれたりなどされているようです。
もっとも、私の書く『シスター・エリスの物語』のみなさんのモデルとなった方たちですから、誰に対しても、とてもあたたかい愛を持って接してくれています。
日頃、私は感謝をすることがあまりないので、ここで、その気持ちを表したいと思っています。
足立の霊団のみなさん、そして、いつも傍にいてくれるシスターたち、いつもありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。
waka (火曜日, 15 11月 2022 09:47)
最近、私が学んだことです。
日頃、私の中に存在する「高慢さ」を、一体どうすれば克服することが出来るのだろうか?と思い巡らせてきました。
他者への奉仕、いわゆるサービスを通じて成長すれば良いことは、すでにシルバーバーチの教えから学んできたことですが、これが簡単ではないことも学んできました。
人によって選ぶわけではないですけど、私自身が奉仕をしたくなくなる場合もあるのですから、そいうい場合はどうすれば良いのだろうか?と、考えてきました。
表面上は取り繕うことが出来ても、内面的な自分が本当の自分であると、私は気づいているのですから、どうせなら内面的にも快く実践したいです。
それに自分が未熟だからと言うだけでは、何も解決出来そうになかったので、今までの経験を振り返ったり、いろいろと本を読んだり、動画を見たり、読書会で人の話を聞いたりしてきました。
結局、どうやら自己犠牲が必要だと、シルバーバーチの霊訓にも書いてあるのですが、そもそも自己犠牲が出来るのであれば、私の中の「高慢さ」も、どうにか出来ていたと思います。
誤解のないように言いますと、自己犠牲の自己とは、「エゴ」のことだと思っています。
それは、利己主義という意味の「エゴイズム」を短縮した言葉としてのエゴとなります。
利己主義、または、エゴイズムとは、他人の迷惑を考えず自分の利益のためだけに行動するやり方、考え方のことです。
そもそも他者への奉仕は、そのような利己主義を犠牲にしなければ出来ないことで、もしも、そうでなければ、下心のある行為、あるいは、見返りを求める行為となってしまうでしょう。
というような知識は得たものの、私の奥に巣食う高慢さは、このエゴの存在が大きいと感じるようになりました。
それで、今のところの解決策として自分の中から提案されたのが、「お互いが幸せになる方法を探すようにする。」「お互いの幸せのための実践をする。」ということでした。
それは、個人に対しても、グループに対しても、もっと大きな存在に対しても、そのような気持ちを持つということです。
それと次のようなことも知りました。愛は、誰も軽蔑しない。つまり、相手を思いやることが出来ないから、高慢になってしまう。愛が足りないから、自分を上にして、他人を見下してしまう。
もしも他人の欠点や間違いに目がついてしまったら、その欠点や間違いは、非難するべきものと見るのではなく、それは克服できる欠点や間違いであると見るようにすることで、自分の中の高慢さをだいぶ和らげることが出来るようです。
スピリチュアルヒーリングをするためには、やはり、何よりも愛が必要だと思いますが、同時に謙虚さも大切だと感じています。
私自身、人やスピリットたちに助けられてばかりいるので、少しでも何かの、誰かの役に立ちたいと思っています。
waka (Tuesday, 15 November 2022 19:25)
補足として、
シルバーバーチが、わざわざ他者に対する奉仕に対して、何故?自己犠牲という言葉を使ったのかに対する私の見解を書きたいと思います。
たとえば、利己主義という場合の「己」とは、自己、あるいは自分自身のことを指しますが、この「自己」とは、自分の利害に絡んでいる自分以外の他者やグループも含めて「自己」と認識されます。
具体的な例で言うと、もしも私が、シルバーバーチの霊訓を広める努力を、読書会を通じてしていたとしても、自分が開催している読書会やメンバーのみが優れていているとして高く評価し、そのために他の読書会を見下すようなことがあったとすれば、やはりそれは、他者への奉仕に見せかけた自己への奉仕に他ならないと感じます。
私の中の高慢さとは、どこまでも自己を拡大していった先の他者への奉仕であって、それは、自分の中の利害を超えたものではないことを伝えられております。
そのように他者への奉仕のためには、一時であっても、私に関する利害……、それは読書会に限らず、知識や経験などを含めて、あらゆるものを捨てて実践する必要があるのだと感じております。
今までの私は、他者への奉仕の「他者」という認識が、「自己の利害の拡大」でしかなかったことに、ようやく気が付いた所です。
このように言葉にするのは難しいのですが、もしも、他者という存在に対して、純粋に、自分を愛するように愛せるならば、わざわざ自己犠牲という言葉を使用しなくても良かったのではないかと思っています。
シルバーバーチは、私たちがより幸せになるための秘訣を教えてくれていることに、改めて気が付いたのですが、このことを通じで、少しでもみなさんのお役に立てることを願っております。
waka (Monday, 21 November 2022 06:30)
つい先ほど、夜明け前に見た夢です。
私は、子供のころに通っていた小学校のような場所にいました。
そこにいる子供たちは、小学生から中学生くらいのように見えました。
いろいろな授業だと思われるのを、それぞれの子供たちが受けていました。
はっきりとは覚えておりませんが、そこでの勉強も、私から見ると楽しい遊びにしか感じられませんでした。
ただ、印象的だったのが、小学校低学年くらいの男の子が、休み時間を利用して、学習ドリルに書かれた漢字の読み方や意味を覚えようとしていました。
それがテスト(どんなテストでしょうか?)に出るらしいことがわかったので、私(とは言っても、今の意識のままの17~18歳)は、その男の子に、一つの言葉を教えていました。
その言葉とは、『理』(コトワリ)でした。
よく使われる意味としては、「物事の筋道」「不変の法則」のことですが、中国哲学では、「宇宙の根本」のことを意味しているようです。
それから少し経って目が覚めたのですが、どうやら夢の世界では、地上と同じような学校があるけれども、学んでいることは、地上とは違って、世界の仕組みのようなことやグループでの活動の方法だと感じました。
また、これは私が感じたことでしかないのですが、その学校で授業を受けている、さまざまな子供たちは、見た目通りの子供たちではないのかもしれません。
何故なら、どの子供も、それなりの善良さや無邪気さが感じられるものの、何かしらの未熟な部分があって、そこを補いつつ、全体的な成長をする必要があるように感じられたからです。
それでも、その夢の世界での生活は、この地上世界に戻ってくるよりは、何倍も楽しく感じられるし、生きがいが感じられます。
私は、シルバーバーチが語っているような霊の世界を、夢で見ることは出来ないのですが、夢で見る世界は、ただ、そこにいるだけで楽しく感じます。
たとえば、地上世界の荒川土手で過ごすのと、夢の世界の荒川土手で過ごすのとでは、何が違うのかというと、地上では、肉体を通して限られた心の部分で感じることが、肉体に関係なく、ありのまま全身で感じることが出来ることです。
だから、ほとんど変わりのない景色に感じても、まったく違うものに感じます。
また、それらの景色を振り返っても、やはり、夢の世界での景色は、全身で受けた印象として思い出すことが出来ます。(あぁ~、私にとっては、その感覚で感じることが大切なのだと、初めて気が付きました。)
そういうわけで、このような話も、何かの役に立つかもしれないと思い、書くことにしました。
以上となります。
waka (Monday, 21 November 2022 21:02)
これから話す、神の一部である私たちについての話は、私が今まで霊団の下で学んできた教えです。
必ずしもそれは、シルバーバーチやホワイト・イーグルが語った内容と、全てが一致しているわけではないですし、私の理解が間違っているかもしれませんので、参考程度にして下さい。
まず初めに、私は原初のことを知ることができないし、理解することができません。そのため原初については、大いなる神秘(Great Mystery)と呼んでいます。
同じように、終わりのことも知ることが出来ないし、理解することもできないので、やはり、大いなる神秘(Great Mystery)となります。
その大いなる神秘(Great Mystery)の中で、無から無限が創造されたことで、私たちは創造主が存在することを理解しました。
その無限のことを、シルバーバーチは霊と呼んでいるのだと思います。また、生命とも言い換えることができると思います。
その創造によって、「無でもあり、同時に、有でもある」ということが、大いなる神秘(Great Mystery)の中に存在することを、私たちは理解できないまでも認識しました。
その「無でもあり、同時に、有でもある」という認識は、霊と呼ばれるものの概念であると感じております。
その無限(あるいは霊)という存在は、自らの中に気づきを得ました。それは、意識と呼ばれるものでもあり、無限の知性でもあると言えます。
きっとそれは、みなさんがグレート・スピリット(大霊)と呼んでいる概念でもあると、感じております。
そして、無限の存在による気づきは、焦点というものをもたらし、その存在の自由意思によって、無限のエネルギーを生み出しました。
その無限のエネルギーは、愛と呼ばれるものです。
その無限のエネルギーは、光と呼ばれるものです。
また、無限のエネルギーは、やがて知的なパターンを有し、個性を有するまでとなり、共同創造主となります。
愛は光のエネルギーであり、光は愛の顕現であり、物質のもとになるエネルギーです。
無限のエネルギーとは、霊力と言い換えることが出来ます。生命力とも言い換えることができます。
無限のエネルギーは、無限の多様性を生み出し、さまざまな焦点を得ます。
それは私たちに、個であると同時に全体であり、全体であると同時に個であるという認識を与えました。
今までの理解から、創造主に含まれる無限のエネルギーは、叡智であり、愛であり、光であると言えます。それは、霊力であり、生命力であると言い換えることができます。
その無限の知性は叡智と呼ばれ、愛と光とともに、自然の法則を生み出した。あるいは、無限の中から見つけ出した。もしくは、自らの中に有した。と言えるかもしれません。私には、理解が及びません。
ホワイト・イーグルの教えにもあるように、無限のエネルギーが光となり、光が物質へと変化したときに、私たちの惑星である地球では、四元素と呼ばれる、水、火、空気、地が最初に創造されたと言われております。
それら無生物であると思われている存在も、自らの知的エネルギーに気づく何らかの意識が存在しているようです。(※無生物とは、石や水などのように、生命がなく生活機能をもたないものです。)
シルバーバーチ霊訓(三)第七章 宇宙創造の目的 でも、
「現在人間という形で表現している意識も、かつては動物、鳥類、魚類、植物、その他、無生物と呼ばれているものすべてを通じて表現されてきたのです。これからもその意識は進化と成長を続け、発展し、拡張し、神性を増し、物質性を減らしていきます。」と、語られております。
みなさんも、このような知識を得ることで、シルバーバーチやホワイト・イーグルの教えを学ぶ意味について、より深めていくことが出来ると思っています。
第1領域「鉱物(課題は、気づき)」→第2領域「植物・動物(課題は、光・神に向かって成長する)」→第3領域「人間(課題は、霊的存在としての自覚を得ること)」
創造主による無限のエネルギーが、永い時を経て人間へと進化し、成長していくことで、霊的存在として目覚めた後は、次の第4領域へと進化していきます。
その第4領域へと進化するための課題は、愛と調和であり、それは他人への奉仕、つまりサービスを通して成長することで可能となります。
けれども、その段階を十分に経験することなく、さらに上の第5領域(光と叡智)へ進もうとする傾向が見受けられるようです。
しかし、さらにその上の第6領域へと進んだとしても、愛と光、調和と叡智との釣り合いが取れず、それ以上の進化が望めないために、地上への再生を繰り返すことになるようです。
それは、私たちが神と呼ぶ存在は、愛の欠けた存在ではなく、愛そのものだからです。
だからこそ、今の地球人類にとって、シルバーバーチの霊訓、及び、ホワイト・イーグルの教えが大切であることと、何よりも、今、地上で身に付けなければならないのが、愛と調和であり、それが、利他やサービスを通して可能となるからです。
そのような学びを通して、私は霊的自覚を得ることがどれだけ重要であるのか?さらに、その後の進化がどれほど望まれているのか?を自覚するようになりました。
何故なら、ここを通過出来なければ、霊的にも、物的にも、何度もやり直しをしなくてはならないかもしれません。
出来ることなら、何とかみなさんとのりこえられるように、私もみなさんと一緒に力を合わせて頑張っていきたいです。
これらの学びが、シルバーバーチ読書会を開催していくための、私の原動力でもあります。
(それ以外にも、趣味だったり、楽しみだったり、暇つぶしでもあると言ったら、怒られそうですけど……。だって、永遠の時があるのですから。)
waka (日曜日, 04 12月 2022 16:32)
来年の読書会は、会議室での読書会とオンラインでの読書会の日にちが、いつもと逆になっています。
それは、仕事が休めるかどうか、まだ確定していなかった時に会議室を借りる必要があったので、念のために1月15日の開催にしていました。
けっきょく、1月8日も上司の方が、読書会のために休みを確保してくれましたので、1月8日は、オンライン読書会を開催することになりました。
普段はその上司にお礼を述べる機会はないのですが、シルバーバーチ読書会開催のために、7年以上も休みを調整して確保していただいたことに感謝しています。
本来、日曜日は交代で出勤する必要がある職場ですが、同じく読書会開催のために出勤されている方たちにも、感謝しております。
そして、読書会は、私一人の力で開催できるわけではないので、読書会の参加者の方たちとこれを読まれている方たちにも、お礼を述べたいと思います。
ありがとうございます。
なんとなく、肝心な神に感謝してないような気がしますが……。
本日開催した読書会の報告は、ひとまず置いといて、年内、これから2回開催される北神戸ぷちサークル読書会に参加してからいろいろと書こうと思っています。
ただ、今日、参加された方が、「シルバーバーチの霊訓は、イエスの反省文に思えてくる」という意見と、「今回のところは、内容的につまらない」という感想は、私としては、面白かったし良かったと思います。
waka (Monday, 05 December 2022 08:41)
昨日は、とてもエネルギーを消費してしまったので、いつもよりかなり早めに寝てしまいました。
私がシルバーバーチの霊訓を使って、みなさんと読書会で学んでいる理由のひとつを述べたいと思います。
まず私は、スピリットである(にもかかわら)、シルバーバーチの人柄に対して、とても好感を抱いています。
シルバーバーチは、霊の訓えを伝える時でも、少しも偉ぶることなく、まるで大切な友人に語り掛けているかのように私には感じられます。
また、『シルバーバーチの霊訓(五)一章 シルバーバーチとは何者か』では、「私のことをいつもマウスピース(代弁者)としてお考えください。地上に根付こうとしている霊力、刻一刻と力を増しつつある霊の声を代弁しているに過ぎません。私の背後には遠々と幾重にも連なる霊団が控え、完全なる意志の統一のもとに、一丸となって協調体制で臨んでおります。」と語られています。
ここで語られている、シルバーバーチの言葉を理解すれば、シルバーバーチを信仰の対象とするのは間違いであり、その背後に控えている、かつてナザレのイエスと呼ばれた存在に対しても、信仰の対象にするのは間違っていることが感じられると思います。
それでもこの文章を読んだだけでは、イエスを信仰の対象にしている人にとっては、私が伝えている意味について理解できないかもしれません。
そういうことで、少し違う見方をしたいと思います。
太陽系がある天の川銀河には、約2000億個の恒星があると言われています。さらに、星間ガス、惑星などのさまざまな天体があり、天の川銀河の中心部分には、太陽の400万倍の質量を持つ超巨大ブラックホールも存在しています。
さらに今の時点においても、そのような銀河が宇宙には2兆個も存在すると言われています。
もしも、このような宇宙の大きさを知っているのなら、シルバーバーチやイエスを信仰の対象にして、その全責任を押し付けるようなことは出来ないはずです。
ただ、これが地球人類に限っての話であるとの主張ならば、なおさら謙虚に、宇宙の広大さと神の偉大さを受け止める必要があると感じております。
来年学ぶ予定の『シルバーバーチの霊訓(三)七章 宇宙創造の目的』では、
「私の考え方は、大霊の一部である意識の、生活の中における開発と発展に主眼を置いています。この意識は私の知る限り無窮の過去より常に存在してきたものですが、それがさまざまな形態を通じて顕現し、その表現を通じて絶え間なく洗練されつつ、内在する神性をより多く発現していくのです。」と語られております。
ここでのシルバーバーチは、「私の考え方は」及び「私の知る限り」という言葉を使用して語られています。
もしもシルバーバーチが、ここで「絶対にこうである」と断言していたとしたら、私はシルバーバーチを信用していなかったと思います。
何故なら、私自身がブログで書いている「私たちは、創造主と一つです」の内容も、私が今まで学んできたことを紹介しているのであって、創造主から直接聞いたわけでも教えてもらったわけでもないからです。
そういう自分の経験もあるので、なおさら、シルバーバーチの正直なところと謙虚なところが目についたわけです。
今まで述べた理由などから、シルバーバーチの霊訓を信じるというよりは、シルバーバーチの霊訓で語られていることについて、みなさんと一緒に考えてみたいと思って読書会を開催しています。
今回は、このくらいで終えたいと思います。
それと、
昨日の読書会で、ちりりんさんから話を聞いていましたが、
ちりりんさんのブログ『シルバーバーチを拠り所にして』
「ぞっとするような・・・看護助手」を読んで、率直に凄いなと思いました。私には出来そうにありません。
介護の話は、私にとっても身近な話になりつつあるので、何と言ったらいいのかわかりませんが、ちりりんんさん頑張って下さいね。
waka (Friday, 16 December 2022 20:57)
今回は、ひとりごとです。
暇つぶしにどうぞ。
私の頭の中が、本当におかしいだけかもしれませんので、読む場合は注意してください。
数日前、知人からのメールで、「どうすれば霊の世界へ焦点を合わすことができるのか?」という質問がありました。
いつもなら、「霊の世界の住人になったつもりで、この地上世界を見ようとすれば良いのではないでしょうか?」と答えると思うのですが、ちょっと、自分の内側から声なき声がいろいろと伝えてきました。
その話をしたいと思います。
この内側からの声なき声は、見ることも聞くことも出来ない存在なのですが、確かに私の内側に存在しているし、わかるのです。
不思議だ~。
そういえば、私が私と思っている、いつもの内側の存在は、肉体が邪魔で力が発揮できないよ~。と伝えてくるのですが、どうやら声なき声と私が呼んでいる存在は、それとも違うようで、いろいろと私に伝えてきます。
たとえば、今日はこのような内容でした。
人間は神に創造された存在であると言う時、その人間とは、地上世界での、霊の道具としての私であり、本当の私が進化するための手段であるという。
けれども、人間は神の一部であるという時、その人間とは、創造されていない根源としての私であり、内在の神と呼ばれているのだという。
つまり、人間とは、創造された存在でもあり、創造されていない存在(神と同じ)でもあるという。
そのようなことを伝えられた私は、以下のように、いろいろと思いをめぐらせてみました。
どうやら、創造主という存在は、霊と物質、プラスとマイナス、ポジティブとネガティブ、天と地、善と悪、無限と有限、陰と陽などのように、対(ペア)が好きなようです。
それで、無限でもあり有限でもあるとか、全体でもあり個でもあるとか、とにかく別々のようなのに、それは一つであるとか、とにかく、私の声なき声という存在は、いろいろと話してくれます。
なぜ、そのようなペアとなっているのかというと、どうやら進化、創造にかかわることのようで、どちらか片一方では、不都合のようなのです。
まぁ、それで、調和が大切だということらしい。
そういえば、イエスも、「私は父の中におり、父は私の中におる」というようなことを語られていたように思います。
表と裏で一つのコインとして存在できるようになっているのが、法則なのでしょうか?でも、よくわかりません。
私の親父が、私の中にいたら……、怖い。と、いうような冗談を、今、伝えられたけれど、これを書いて良いのでしょうか?まぁ、いいか。(これはこれで、私の中の違う存在のようなのです。)
それで私は、人間という存在、あるいは、私という存在は、統合体であると感じております。
それはそうと、なぜ、私が「らしい」と言うのか?については、どの本に、そんな風に書いてあったっけ?と、思っているからです。
とにかく、来年の読書会では、みなさんの足を引っ張らないように、また、あまり脱線しないように、シルバーバーチの霊訓の予習と復習をしようと思っています。
それでは、これで、ひとりごとを終わらせていただきます。
waka (火曜日, 27 12月 2022 12:10)
今、私が主に読んでいる本は、徳間書店の「ホピ 神との契約 この惑星を救う テククワ・イカチという生き方」です。
なぜかこの本と縁があって、とにかく読んだ方が良い気がして、今、少しずつ読んでいるところです。
自分にとっての正しいことや善なることが、必ずしも絶対的なことではなく、相対的なことであるかもしれないと思いました。
20年以上前の2001年に出版された本ですが、宗教や信仰とは何であるのかを再認識した方が良いのかもしれませんね。