2024年12月29日日曜日
今回は、北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」の報告の続きとなります。
使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」 第9章 愛の法則がすべてを支配
4.人との一体感 5.生命を癒し生命を変える愛の力 (194ページ1行目から200ページ終わり)となります。
200ページ6行目、
「内なるキリストは、いかに奉仕をするかを考えており、自らのことを考えてはいません。」
「実際、純粋な心を持つ魂は、最終的に偉大なホワイトロッジに入るときの素晴らしい瞬間に、自らの進歩、自らのイニシエーションを考えることはありません。」
「そうしたことを思うことなく、神の子らにいかに最良の奉仕と愛を与えられるかを考えています。すなわち、愛を伴った奉仕です。」
読書会の中で話題に上ったのは、このホワイトイーグルの言葉が、シルバーバーチの霊訓で語られている”自己犠牲”と重なっている。という意見でした。
そして、この”自己犠牲”というものに対して、どうしても違和感を持ってしまったり、受け入れられなかったりする方が参加者の中におられます。
しかも他の読書会に参加した経験からか、自己犠牲が出来ない人は、人としても霊的にも劣っているという気持ちを抱いてしまうようになって、自己犠牲という言葉に触れるだけで辛くなることもあるようです。
どうしてそうなってしまうのかを考えるうえで、まずは、言葉の意味を整理してみたいと思います。
自己犠牲の意味はいろいろとあるのですが、仕事や他人など、何かのために自分の時間や労力を捧げること。または、自分の利益よりも他人の利益を優先して行動すること。さらに、ある目的のために自分の欲望や幸福を捨てて尽くすこと。そして、何らかの目的や他者のために、自己の時間・身体・生命を捧げること。とあります。
自己犠牲と言う言葉一つとってみても、人それぞれ微妙に意味が違っているかもしれない。というのが正直な感想です。
そういうことも踏まえた上ですが、ある参加者の方は、地上での自己犠牲という言葉の中には、自己憐憫(ジコレンビン)が含まれていると指摘されていました。
ちなみに、自己憐憫とは、自分自身に対して憐憫の情を抱く、つまり自分のことを哀れんだり、かわいそうだと思う感情のことです。
そこには、お互いがギブアンドテイクの関係ではないという思いがあるのかもしれません。つまり、お互いが対等ではない、それでは不平等である。という感情があるのかもしれません。
私の意見としては、「自分自身が自己犠牲だと感じることは、他人にしないほうが良い」と思っています。
何故なら、自分が自己犠牲だと感じる自己犠牲は、何かしらの見返りを含んだ行為であると感じているからです。私にとっては、自己憐憫に陥るのも、何かしらの愛を求めているからだと感じています。
次のような例をあげて考えていきたいと思います。
たとえば、私のようなシングルの親が、子供のためにという理由で自分を犠牲にして、まるで地獄にいるような辛い気持ちを抱きながら日々過ごしているとします。そのような親の姿を見て、子供は親の愛情を素直に受けいれることができるのでしょうか?
むしろ、自分を犠牲にしてでも良い子になって、親の負担を減らし、親が少しでも喜ぶようなことをしようとするかもしれません。
何故なら、自分のせいで親は苦しんでいるのかもしれないと思う子供だっているからです。(もちろん、そうではない子供もいますし、限界があります。)
これは極端な例かもしれません。それでも、親が子供の幸せのために苦しむということは、(それが無意識的であっても)何かしらの見返りを子供に要求する行為になっていることだってあるのです。
けれどもこれが、子供を愛するがゆえに、どんな苦労も辛いとは思わない親だとしたらどうでしょうか?
しかも、子供の笑顔を見るのが何よりも好きである親ならば、その親は笑顔でいることも多いのではないのかと思うのです。
そのような場合であれば、たとえ親が苦労をしていたとしても、子供の方も安心して親の愛を受け入れることが出来るのではないでしょうか。
(これを言葉通りに実践出来るのは、ごく一部の方かもしれません。自分で言うのもおかしいですが、経験者の私からすれば、私の述べていることは綺麗事だと思います。)
自分に対しても相手に対しても、自己犠牲は決して強要して良いものではないでしょうし、それを強要する人は、良心を人質にとって、恐怖で支配しようとしているとしか思えません。
そういうことで私としては、ホワイトイーグルの”愛を伴った奉仕”という言葉は、地上で言われている”自己犠牲”の概念とは違うと感じております。
シルバーバーチもこれまで大切なことを語っています。それは、”動機”についてです。
やはり、そこに”愛”があるかどうか?ということが一番大切なことなのかもしれません。
行為としての”自己犠牲”を考える上で、そこに”愛”が伴わなければ、シルバーバーチが語る”サービス(人の役に立つこと)”とは、”似て非なるもの”であると私は思っています。
とは言え、私はどちらかというと、人として大切なことは、”神の愛を分かち合うこと”というように教わってきたので、自己犠牲と言う言葉はあまり私には馴染まないようです。
それでも、大霊がその一部である私たちと、その光と愛と力の全てをかけて分かち合っていることを”自己犠牲”と言うのでしたら、その言葉を受け入れても良いと感じております。
最後に、自己犠牲を強いることは、愛するものにはしないはずです。それを強いてしまう人は、相手を愛するよりも自分のことを愛しているからだと思います。いわば、何かしらの見返りを求めているからこそ、自己犠牲をことさらに強調するのだと感じます。
結局は、愛ゆえに、そうしたいからそうする。というのが良いのかと思います。
今回は以上となります。これで今年の読書会の報告は終わりとなります。
それでは、来年もよろしくお願いします。
2024年12月25日水曜日
昨日に開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」の報告をしたいと思います。
使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」 第9章 愛の法則がすべてを支配
4人との一体感 5生命を癒し生命を変える愛の力 (194ページ1行目から200ページ終わり)となります。
ホワイトイーグルの言葉からは、人生を理解するためには、人間を知ることが必要であることが伝わってきます。そのためには、人間を知るための経験が必要となり、それは人間の喜びや悲しみを理解するための時間を持つことで得られるようです。
もちろん、霊的知識を学ぶために、読書の時間を持つことも大切であると思います。
194ページ5行目、
「あなたがたは、肉欲やアルコールの切望といった肉体の未熟さを経験したはずです。」
194ページ6行目、
「あなたがたは、のけ者にされる失望や非難される苦しみを理解しなければなりません。」
194ページ10行目、
「堕落や苦しみを経験しない人がマスターを識別できるなどということはありません。」
ホワイトイーグルのこれらの言葉が、私にはとても身に沁みてきて、何とも言えない気持ちになります。ありがたいと思う気持ちと同時に、これまで経験してきた数々の苦しみが、自分自身への糧となっていることを思い起こすからなのかもしれません。
195ページ11行目、
「人生における経験ほど偉大な教師はありません。」
私もそう思います。
でも中には、経験よりも知識の方が重要だと思っている人もいることでしょうね。
それはそうと今回もやはり、私たちには、苦しみの経験と愛するということが必要であると感じました。
本当は、苦しまないで成長出来ればいいなぁと思っています。
今回は時間がないので、これで終えたいと思います。
いずれ時間が出来れば、この続きを書きたいと思います。
2024年12月22日日曜日
先週の20日金曜日に、北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」が開催されました。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)二章 悲しい時、苦しい時こそ」40ページ3行目から
40ページ3行目、
「次に”死を悼む”という人類に共通した情が話題にのぼった。メンバーの一人が、永年シルバーバーチの訓えを聞いてきた者でも仲間のメンバーが死ぬと悲しみを禁じ得ないのは何故だろうかと尋ねた。」
40ページ8行目で、シルバーバーチは以下のように答えています。
「いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。」
私のことで言えば、私の物心がついたときには、”死んだら終わり”ではないことを当たり前のように受け入れていました。それは、幼いころから霊的な出来事を経験していたこともあるのですが、母の影響も大きかったです。
私がまだ幼稚園に入る前から、母はしょっちゅう夢を見ては、亡くなったあの人と会ったとか、先祖一同と会ってきたとか普通に話していました。カラスが鳴けば、故人のどこどこの人が来ているからとか、初詣に行けば、祖父が座ってこっちを見ているとか、そういうことを日常的に話していたので、「まぁ、そういうものなのだろう」と私は思うようになっていました。
妹もそのような母の話を聞いて育ってきたせいなのか、実家で見えない誰かが家の中を歩いている音を聞いても、「あっ、また誰かが歩いている」という程度の会話にしかなりませんでした。
一例をあげると、これは私がまだ実家にいる時の話ですが、夜に一人で家で過ごし、トイレで用を足そうとした時に、何故かトイレの方に近づく足音がしてきて、トイレの扉の前でピタッと音が止んだのです。
そこですかさず、「私が入っているから」と言ったら、今度はトイレから遠ざかる足音がして、そのうち聞こえなくなりました。
そういう自分であるせいなのか、20代の頃から知人などが他界されたときには、その方の霊の世界での新しい生活が幸せなものへとなるようにお祈りをしてきました。それを霊に対するヒーリングと言い換えても良いと思います。
もしも私が褒められるとすればこの点くらいで、逆に思春期の時にはこれが災いして、エッチな本などを見ている時に、「守護霊様、今の私を見ないで下さい」というようなお願いをしたり、ちょっと困ったことがあると、すぐ霊たちに助けてもらおうとしたりなど、そうとう他の人とはズレている人間だったと思います。今はただ、図太くなっただけだと思います。
その一方で、”人間は死んだら終わりだ”という方もおられます。
そのような方からすれば、良い言い方をすれば、私は感性が豊かであり、悪い言い方をすれば、私は妄想を抱く病人であるということでした。そのようなことを、実際に人生の先輩たちに言われたことがあります。
それから、そのような方の愛する人が亡くなった時には、死んだら無になると思っているので、見るのも気の毒なほど憔悴されてしまう人が多かったです。さらに年齢を重ねるごとに死への恐怖が大きくなるようで、少しでも調子が悪くなると、すぐに病院へ行って調べてもらわないと怖いと言う人もいました。
でも、そのような人たちに対して、霊的な無知を責めたり、無理に考えを変えようとするのは良くないことだと思っています。何故なら多くの人たちに前世や肉体を持たなかった頃の記憶が無いのは、それなりの理由があると思うし、それが必要なことであると思うからです。
ところで最近の私は、自分が変わるために試行錯誤をしていることがあります。
このことを言葉で表現するのは難しいのですが、
今までの”善を基盤(ベース)とした生き方”から、”愛を基盤(ベース)とした生き方”へと移行するための努力をしています。
それは、今までのような”善を基盤(ベース)とした生き方”では、ある多くの人が神と呼んでいる存在の二の舞になってしまうと感じてしまったからです。
そのような存在は、自分たちが理想とする神の王国を、たった今も霊の世界と地上の世界の双方で創ることに夢中になっているかもしれません。
それでは、生と死の世界で同じことを繰り返して、私の言う故郷には帰ることが出来ないと感じています。
私たちは、本来、過去や未来の世界、つまり時間と空間を超越した存在なのですが、それを自覚しその力を得るための鍵となるのが、” 愛 ”だと私は感じています。
最後に、読書会の参加者の方がたの話を聞いて、地上に人間として存在している理由の話を聞いて、全くその通りだなぁと感じたり、それから親への介護の話が出たときには、私も母のことを重ねたりして、北神戸ぷちサークル主催の読書会に参加出来て改めて良かったなぁと思いました。
今年のシルバーバーチ読書会はこれですべて終えましたが、来週の火曜日には、ホワイトイーグル読書会があるので、それを楽しみにして忙しい年末の仕事も頑張っていきたいと思います。
以上となります。
2024年12月8日日曜日
本日、オンラインでの「足立シルバーバーチ読書会」を開催しました。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(九)一章 シルバーバーチはなぜ戻って来たか」の予定でしたが、先に「まえがき」を輪読して、参加者のみなさんと語り合いました。
まえがきの2ページ5行目、
祈りの冒頭は、 「神よ。みずからに似せて私たちを造りたまい、みずからの神性の一部を賦与なされし大霊よ。」となっています。
今回は、「なぜ、最初は”神よ”という言葉を使用し、その後は”大霊よ”という言葉を使用しているのか?」ということに思いが行きました。
私が感じている所では、シルバーバーチは、あえて用語を使い分けて使用しているということです。読書会で、何故そのように感じるのかを説明したのですが、まぁ、結局はシルバーバーチが今まで語ってきたように、用語についてはどうでも良いのかもしれません。
それでも、シルバーバーチの霊訓を学んでいけばいくほど、実は、シルバーバーチがとても科学的な視点から語られていることに気づいてきました。
私たちの顕在意識では、言葉の意味の違いがわからないとしても、潜在意識、あるいは、無意識と言われる領域には、きちんとその意味が伝わっているのが感じられます。
とは言え、こういう所に興味を持つ人は、私がそうなのだと思いますが、相当マニアック的な方なのかもしれませんね。
その他の話として、今回、「ワンネス」について説明して欲しいという要望がありました。
ここでは紹介することはないのですが、ワンネスについて、私よりも詳しく易しく説明されている方がいるので、そちらを参考にして欲しいという話をしました。
それから、これは読書会で出された意見ですが、日本では”神”という言葉を出すだけで避けられてしまう傾向があるし、宗教絡みの要注意人物であると警戒されてしまうかもしれない。特に若い世代の人の方がそのように感じられる、ということでした。
そういうこともあって、一般的には、神や大霊という言葉を持ち出すよりも、”ワンネス”などの横文字の方が受け入れやすいと思う。ということでした。
ただ、ワンネスの意味が、説明する人によって違う時があるので、その点だけは注意が必要だと思いました。
その後も、みなさんといろいろなことについて話しましたが、
今回の報告は、以上で終えたいと思います。
2024年12月1日日曜日
本日開催した「足立シルバーバーチ読書会」の報告となります。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)三章 再生の原理」68ページ9行目から75ページ4行目までとなります。
71ページ10行目、
──新しい霊魂はどこから来るのですか。
「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。」
これを読まれている方は、もしかしたら次のような疑問が出るかもしれません。
”果たして、無窮の過去より、個(体)としての私は存在していたのか?それとも、どこかの時点で、個(体)としての私が存在することになったのか?”と。
72ページ2行目、
「(ですから)その質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」
この文章からは、神の分霊が地上で個体としての表現を開始することで、個性が得られるのだと読み取れます。つまり、個性とは、個体としての「わたし」が、何かしらの媒体を通して表現することで培われていくものだと言えます。
72ページ4行目、
──ということは、われわれは神という全体の一部だということですか。
「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。」
やはり、ここで語られているように、われわれは神という全体の一部だということが、いつか私たち地球人類の共通の認識となっていくと良いですね。
次に、以下の質疑応答は、シルバーバーチの霊訓を読まれている方であっても、理解出来ているようで理解出来ていない個所であると思われます。
72ページ9行目、
──でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。
「これまた用語の意味がやっかいです。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。」
(つまり、個性を持つ前に、個(体)としての”わたし”は存在していたのか?を聞きたいのだと思われます。)
「そういう意味でしたら、それはよくあることです。」
「但し、それはいま地上で表現し始めた個性と同じではありません。」
私は今日の読書会で、みなさんとこの部分を読み返すことで、やっとシルバーバーチが伝えようとしたことを理解しました。
それは、シルバーバーチが「個性」と「個体」とをきちんと使い分けているのにもかかわらず、(言葉の限界があるのかもしれませんが、)今までは、その意味の違いをきちんと受け止めることが出来ませんでした。
おさらいとして、たった今、私たちが地球人として表現している個性は、地上で人間として生まれることで培われてきたものだと言えます。ということは、地上で人間として生まれてこなかった場合は、今の私たちの個性は存在していなかったと言えます。
一方、個体というのは、シンプルに言えば、「わたし」ということになります。その「わたし」を何らかの媒体(地球では肉体)を通して表現されたものが、「個性」であると言えるでしょう。
これらのことは言葉で伝えようとしても難しいのですが、たとえば、「わたし」が鉱物である鉄を通して、それを経験している場合に、そこに「わたし」の意識が存在していたとしても、そこには、わたしの個性があるとは言えないのです。
何故なら、鉱物である鉄には、個性を培うために必要とされる媒体を提供することが出来ないからです。
そういう視点で見れば、”個性がないから意識はない”という考え方は、改めた方が良いかもしれませんね。
そのような理解に至れば、地上に生まれる前の霊としての存在が、個体としての「わたし」として存在しているとしても、何らおかしいことではないと言えます。
これはあくまでも私の考えですが、個性を持つためには、それを可能とするための宇宙が必要とされるのだと感じています。
しかし、その宇宙はいつから存在しているのかを私には答えられないのと同じように、個体としての「わたし」がいつから存在しているのかを私には答えられません。
それでも言えることは、シルバーバーチによれば偶然というものはないのですから、ある時点でたまたま、「わたし」という存在が大霊の一部として誕生したのであるとは言えないのです。
では、「わたし」とは何なのか?そして、神の一部とは何なのか?けっきょく、謎が深まるばかりのように感じております。
今の私としては、この地上に生まれる前から、神の一部としての「わたし」がいるのだと思えれば、それで十分だと感じております。
今日は天気も良くて、20階から見る富士山も本当にきれいでした。それから、最初に足立シルバーバーチ読書会や足立の霊団のこと、特に関わっている宇宙人やボランティア·ソウルの話をいろいろとしてから始めたせいか、参加者の方が、「窓の向こうにUFOが見える、UFOが見える」と十数回にわたって言っていたので、(ちなみに他の方は、先月終わりにUFOを見たそうですが)いろいろとにぎやかな読書会となって楽しかったです。
今回は、以上となります。
2024年11月30日土曜日
前回に引き続き、ホワイトイーグル読書会の報告をしたいと思います。
使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」 第9章 愛の法則がすべてを支配 2自然の愛 3愛したい愛されたい となります。
191ページ6行目、
「私たちはまず、愛を与えたい、すべてを愛したいという大きな願望、そしておそらく愛されもしたいというひそかな願望(これはとても自然であり人間的でもあります)を持つことからスタートします。」
改めて言うまでもなく、私たち人間が愛したいと同時に愛されたいと思うのは、ごく自然な要求なのかもしれませんね。
191ページ11行目、
「あなたがたにとって必要なことは愛することです。そして、あなたがたがこのことを理解すれば、即座に平和が訪れます」
そして、愛をコントロールする努力は必要であるのか?と問い、「たしかに、自分の感情をコントロールすることを学ぶことは必要です。」と続きます。
192ページ9行目、
「失敗からのみ、魂は学ぶことができます。痛みと苦しみによって魂は成長します。そして、成長に伴う苦痛は、実際、痛ましいものです」
”魂の学びは失敗から得る”というのは、シルバーバーチの教えと重なるところです。厳しいようですが、”私たちは失敗をしなければ、魂にとっての学びが得られない”と解釈することが出来ます。
さらに、魂は学ぶことによって成長していくのですが、ホワイトイーグルの優しさを感じるのは、成長に伴う私たちの苦痛を、ホワイトイーグルも同じように受け止めてくれているところです。
一方、シルバーバーチはどちらかというと、”そんなことで負けてはいけない”という感じで、男性的な励まし方をされているように私は感じます。
それに対してホワイトイーグルが語る言葉には、いろいろな個所で女性的な面が感じられます。
これは、霊媒の性別や性格が影響している可能性も考えましたが、きっと、そうではないと言う方もおられるでしょう。実際にそうではないと思いますが、スピリットと霊媒との背後の繋がりを考慮すれば、そこにはある共通点が見出せるような気がします。
ここで、それではどちらの方が良いのかという議論は、(特に宗教などにみられますが)人によってはされているのかもしれませんが、それを結論付けたところで何が得られるのでしょうか。それよりも、どちらも好きなように読んで学べるという選択肢があることは嬉しいことですし、ありがたいことです。
そして、いろいろ読んでみたけれど、私にはホワイトイーグルが合っているとか、シルバーバーチの方が良いとか、霊の書のようなスピリティズムが面白いとか、そういう方が何だか自分にとっては楽しいと思うことは変でしょうか。
193ページ1行目、
「私たちは、これまで愛は最も開発すべきものであることを事あるごとに言ってきました。愛することは訓練されるべきもの、目指すべき最高峰に位置するものです。」
ホワイトイーグルのように”愛は最も開発すべきもの”と、はっきりと明確に語っているのを他に見たことがありません。もっとも、愛しなさいとか愛が一番ですとかいう話なら、他にいくらでも語られています。
けれども、すべてを愛せるようになるためには、そうなるための愛する努力が必要不可欠なのだと、改めて感じるようになりました。
もともと大霊の一部である私たちには、その内奥に限りの無い愛を秘めているとしても、この三次元と言われている物質世界でその愛を発揮するためには、やはりそのための開発が必要なのでしょう。
それでは何故、わざわざこの三次元の物質世界を愛で満たしていこうとするのでしょうか?
私が感じる、あるいは、私に伝わることとしては、三次元の物質世界が愛で満たされれば、この広大な他の次元も含めた宇宙が変わるからです。
そうなることを宇宙のみなさんは、真に願っているのです。少なくとも、私に関わっている目に見えない存在たちは、そのような願いがあるようです。
私が”なるほど”と思いましたのは、すでに多次元で棲み分けされている存在たちが地球に関わってくる理由の一つが見えたからです。私が今ここに存在している理由でもあるようです。
ただ、もう一つわかったことは、あぁ仕事をするのが面倒だとか、遊んで暮らしたいとか、早く地上から解放されたいとか、常日頃思っている私とは、何とかけ離れた人たち(存在)なのでしょうか、ということです。
本当は地球に住む私たちが、この地球を愛で満たす努力をして、宇宙そのものが愛で満たされ変化していくところを、私たち自身で感じて欲しいと思っています。
2024年11月28日木曜日
11月26日火曜日に、北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」が開催されました。
その報告をしたいと思います。
使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」 第9章 愛の法則がすべてを支配 2自然の愛 3愛したい愛されたい となります。
最初に、前回の報告で伝え忘れたことを書きたいと思います。
前回、私たちが写真や映像を通して見る地球と、他の次元から見る地球とでは美しさが違うという話を聞きました。
話によれば、高い次元から見る地球は、磨きあげられたブルーの宝石のように見えて、ある種の畏怖を抱かせるほどに美しいそうです。
その話を聞いて、私の中に存在している一つの疑問が解けました。
日頃から、私は次のようなことを感じていたのです。それは、人間によって汚染されていなければ、地球はもっと美しいように思うけれど、ある宇宙人が言うほど地球は美しいとは思えない、と。
私たち地球人が肉眼を通して見る地球は、やはり三次元の地球なのですが、宇宙人が見ている地球は、三次元よりも高い次元にある地球を見ているのかもしれませんね。
そのような存在から見える地球は、とても美しいのかもしれません。
そう考えると、そのような美しい地球と、そこに存在する人間を含む地球の住人たちを守りたいと思うのは自然なことなのかもしれません。
でも、肝心な地球に住む人たちの間で、そのように思っている人が決して多いとは言えない所が残念に思います。
190ページ8行目、
「すべての領域の創造物──鉱物、植物、動物、精霊、天使──に奉仕することによって、あなたがたはお互いに奉仕しているのです。そして、あなたがたがお互いに奉仕するとき、その奉仕ははっきりとした形で返ってきます。これは神の法則です。」
「あなたがたは、自分自身を大切にしないで他の人々を大切にすることはできません。しかし、その奉仕で最も大切なことは動機です。あなたがたは、何かの見返りを期待して兄弟姉妹に奉仕するのではありません。あなたがたが動物や人類に奉仕するのは、あなたがたのハートの中にすべての生命に対する優しさ、哀れみ、そして愛があるからです。」
このようなハートを持って生きる方が少しずつでも増えて行けば、きっと今よりも素晴らしい世界になっていくと思います。
まずは、自分がそうなれるよにしていかなくてはね。と思いました。
まだ報告の途中ですが、今回はこれで終えたいと思います。
この続きとなる”3愛したい愛されたい”の内容については、改めて書きたいと思います。
2024年11月17日日曜日
先週の15日金曜日に、北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」が開催されました。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)二章 悲しい時、苦しい時こそ」35ページ4行目から40ページ2行目までです。
そして本日、足立シルバーバーチ読書会で「オンライン読書会」を開催しました。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」の続きからとなります。
シルバーバーチの霊訓(三)二章 悲しい時、苦しい時こそ 35ページ4行目に、
「あまりの戦火の激しさに、こんな状況ではささやかなサークルのメンバーが少しばかり真理を説いても無意味のように思われるとの一メンバーの考えを聞かされたシルバーバーチは、」とあります。
訳者注を見ると、おそらく1930年代の頃の話ではないかと思われます。その当時と今とでは、かなり状況が違うと思われますが、「もっと多くの人たちが霊的に目覚めても良いはずなのに」というような思いは、いつの時代になっても変わらないのかもしれませんね。
さらにこの世界で、シルバーバーチの霊訓での言葉を借りれば、「自分は霊である」という自覚を持って生きている人が、一体どれだけの割合でいるのでしょうか?
それでも肉体の死後には、「自分は霊となる」と思っている人が少なからずいることでしょう。
けれども、「死んでから霊となる」と思っている人の中で、(私からすれば)大きな勘違いをされていると思われる場合が見受けられます。
それは、やたらと霊格の高低にこだわる人たちです。しかも自分の死後は、高級霊となって神界や天国にいくことを信じて疑わないみたいですね。
これは私の一意見でしかありませんが、「死んでから霊となる」と思っている人の場合は、そもそも自分という存在への理解が足りていないと思っています。
そもそも霊格が高いと言われる存在が、弱者が苦しんで救いを求めている世界があるのを知っていて、それには知らん顔をして、自分だけは高い世界で幸せでいたいと思うものなのでしょうか?
判断は人によって違うのでしょうけど、一時的な休息としてなら話は別だと思います。(どちらかというと、私は幸せでいたいと思う方です。)
シルバーバーチの霊訓(三)二章 悲しい時、苦しい時こそ 37ページ終わりから、
「ひたすらに人の役に立つことをするしかありません。つまり脅しや恐怖心や心配の念を吹き込まず、薄幸の人々に救いの手を差しのべたいと望んでいる者であることを身をもって証明していくしかありません」
訳者注にも書いてありますが、古来宗教が信者に恐怖心を吹き込むことによって存続を謀ってきた歴史があるように、今現在も、予言や高次の存在と言われている話によって、日本や世界の危機を煽る情報が吹き込まれているのをみると、あれこれ形を変えてそれが続いているように感じます。
ここで考えたいのは、これらの情報には、相手に恐怖心を植え付けると同時に、「この情報を得ることが出来た人は特別な存在である」と思わせている所です。
話によっては真実と感じる一方で、まるで、何らかの保険や儲け話の勧誘のように感じるのは私だけでしょうか?
一方、シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える 203ページ1行目では、
「人類も生命の永遠の営みの一部にすぎません。その中にあってもし人間がオレたちは他の生命よりも特別に高等なのだと自負するのであれば、ちょうどあなた方が霊界の高級霊からの援助を求めるように、他の下等な生命を援助してやる義務があるはずです。」と述べられています。
私はこれを読んで、言い返す言葉が見つかりませんでした。言い返す必要はないのですけど。
ところで、自分が困ったり苦しんだりしている時に、(苦しい時の)神頼みをされたことがある人も多いと思います。
でも、このシルバーバーチが語る言葉の意味を知ってしまったら、一方的な神頼みは間違いであると感じるはずです。
実際に私はそのように感じました。
それから、苦しい時の神頼み以外にも、いろいろな所で、私たちの霊的な成長の障害になるような習慣や教え、あるいは情報などが溢れているように感じます。
たとえば、自分の死後も含めた幸せを決めるのは、自分自身の外側にある神や宗教、あるいは組織やグループであると思わせることで、シルバーバーチが語っている「原因と結果の法則」やナザレのイエスの「種まきと収穫の法則」から目を逸らせ、考えさせないようにしているのではないでしょうか。
さらに、「ひとりひとりの思いは、所詮、圧倒的な力の前では無力である」と思わされているようにも感じます。
もっとも、「そのように思わせたい存在こそが、真に大きな力の前では無力であることを知っている」という矛盾話があるようです。
最後に、私が学んできた限りでは、「人類とは、進化の途上にある存在」であると言われていて、もしも人類が完璧であるならば、この地上世界だけではなく、霊界と呼ばれている世界にも存在してはいないと言われています。
完ぺきではないと言うことと、自由意志の尊重のことを合わせて考えると、結局、どのような道を歩んでいっても良いのかもしれません。が、出来ればみんなが幸せになる道を歩んでいきたいものですね。
ということで、今回は終えたいと思います。
2024年11月4日月曜日
昨日開催した「シルバーバーチ読書会」の報告となります。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)三章 再生の原理」61ページから68ページ8行目までです。
まず初めに、この章では再生について触れられているのですが、実際の読書会の場で話題にあがったことは、「シルバーバーチの霊訓がそれほど人気がない(ように感じる)のは、次にあげるような内容に原因があるのではないのか?」ということでした。
ご了承願いたいこととして、北神戸ぷちサークルでもそのように見受けられますが、足立シルバーバーチ読書会では、個人攻撃などは論外として、比較的自由な発言をみなさんで受け入れているので、このような意見が時々出されています。
68ページ1行目、
──これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。
「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て始めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて始めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて始めて強く逞しい輝きを見せるのです」
既存の(すでにある)宗教のほとんどは、「神や仏に対する信仰心(忠誠心といっても良いかもしれませんが)によって救われる」とされているように感じます。
そのため、特定の宗教に所属していない人々であっても、神や仏に対する信仰によって苦難は取り除かれると信じている(または、信じたい)ので、お祈りしたり、お参りしたり、戒律を守ったり、金品を捧げたりなど、信仰する神や仏に対していろいろと努力をされるのだと思います。
しかもこれは、既存の宗教だけではなく、スピリチュアルに関してもそのように感じています。さらに心霊的な事だけではなく、天使、あるいは、宇宙人と呼ばれている地球外の方がたに対しても救いを求めている場合もあるようです。
私は「それはそうですよ。だって、現実がとても大変なんですから、自分の外に救いを求めるのは当然ですよね」と思いました。
けれども、シルバーバーチは”苦難は無限に続きます”と語っているのです。
「えっ」てなりました。(初めて読んだ時は……)
68ページ5行目、
──そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。
やはり質問者のような疑問が浮かんできたとしても、それは当然なのだと思います。
それに対してシルバーバーチは、
「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」
と答えています。
きっと質問者の方の立場で言えば、「神への信仰によって、死後はきっと天国へ行けるはずだと信じるからこそ、また、苦しみから永遠に解放されると信じるからこそ、今の生活がどんなに辛くても、現実世界で生きていけるのだ」と。
なぜこのように、質問者の方とシルバーバーチとの認識に大きな違いが生じているのでしょうか?
一つの考え方としては、「この世界は神が創造したのであり、しかも人類は生まれながらに罪を背負っているので、自分たちが救われるかどうかは、この世界を創造した神の御心しだいである」という考えが、私たちの意識に深く刻み込まれているからである。というのがあります。
さらに、「この世界が上手くいっていないのは、世界の人々が(自分の外側に存在している)神の御心に反していたり、間違った宗教を信仰しているからだ」というのがあります。
その考え方の特徴としては、神と人とは全く別々の存在であり、しかも人が神へ近づこうとすれば、旧約聖書の”バベルの塔の物語”にあるように、人間が神に似た存在になろうとすることは、とても傲慢なことであり、神の怒りを買って罰を受けることになる。という教訓さえあります。
きっと中には、自分の良心や理性を押し殺すことになっても、(自分の外側に存在している)神に従わなければならないと思っている人々もいることでしょう。
でもシルバーバーチは、そのように教えていないですよね。
しかも私たち人類は神の一部であり、その内奥に神と同じ神性を宿していて、さらに神に近づくための努力が必要不可欠であると語っています。
私も本音を言えば、出来ることなら楽をしたいので、自分で努力をするのではなく、何とか神に助けてもらいたいのです。
それが神や仏であろうと、または、イエスキリストであろうと、天使や宇宙人であろうと、自分を本当に救ってくれるならそれにすがりたいと思うのです。(かつての私は、そのように思っていました。)
でもやはり一番大事なことは、「救いの道は自分の外にあるのではなく、自分の中にあるのだ」ということなのだと思います。
たとえ今、既存の宗教の間違いを指摘したとしても、あるいは他の人々を変えようとしても、まず自分たち自身が変わろうとしなければ、この世界は変わっていかないのではないかと感じるのです。
それから、それがたった一人の人であったとしても、ひとたび霊的に目覚めたならば、その朗報は宇宙の果てまで届くのです。という話を私は聞いたことがあります。
まずはその、たった一人である自分が霊的に目覚めれば良いと思っています。
私はそれを信じているからこそ、細々ですが読書会を開催していますし、今後も読書会を続けていこうと思っているのです。
今回は以上で終えたいと思います。
2024年10月23日水曜日
10月20日の「オンライン・シルバーバーチ読書会」は、
使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」198ページ9行目から202ページ12行目まで
10月22日の北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」は、
使用図書「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」第9章 愛の法則がすべてを支配 1転生からの解放の秘訣
どちらの読書会もみなさんと楽しく学ぶことが出来ました。
今回、内容についてはふれないのですが、読書会の参加者のみなさんが、霊的知識を日常生活で活かす努力をされていることに、私は深く感動しています。
それから、こうしてみなさんとスピリチュアルなどについて、いろいろと楽しく話せる場があることに感謝をしています。
今まで、私が当たり前だと思っていたことは、もしかしたら奇跡的なことなのかもしれないと感じてきています。
そう思うようになると、何だか感謝の思いが芽生えてくるのです。
肩ひじを張らずに、”共に成長していきましょう”という繋がりは、お金では買えないものだと思います。
最近、そういうことにも思いを馳せるようになってきて、私が地上でいろいろと経験できるのも、”地球のおかげだな~”と思うようになりました。
ホワイトイーグルは、カルマの法則、185ページ13行目で、「地上でのすべての行動の鍵となる唯一の道は、愛、優しさ、思いやりである(という確信が湧いてきます)。」と述べています。
文章的には、中途半端な引用で申し訳ないのですが、
やはり、善とか正義とか正しいとかの前に、愛と優しさと思いやりが先に来なければ、冷たい世界になってしまうような気がします。
私にとってそのような世界は、あまり望まない嫌な世界だと感じてしまいます。
今回は、以上となります。
2024年10月19日土曜日
昨日の北神戸ぷちサークル主催「シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)二章 悲しい時、苦しい時こそ」(35ページ3行目まで)でした。
今回は一か月ぶりの参加となりました。
最初にZoom画面越しから、「お久しぶり~」というお声を頂きました。
私が子供の頃(今から40年以上前)に夢見ていたことの一つに、”テレビ電話で話がしたい”というのがありました。
今となっては、それはもう夢物語などではないし、すでに特別なことではありません。
それぞれ離れた地域に住んでいる参加者たちが、こうしてオンラインの「シルバーバーチ読書会」を通して共に学び合えることは、もはやお伽噺ではなく、現実のことなのだと改めて思い知らされました。
やっぱり一か月ぶりとは言え、これまで一緒に学んできた参加者の方々の顔を見ると、何だかホッとして安心感が芽生えてきます。
32ページ8行目、
「困難の中にあって怖じけず、いかなる緊張にあっても動ぜずに次のように宣言できる人の信念にこそ本当の価値があります──風が吹こうが嵐が狂おうが、世界がいかに混乱し全てが暗黒に包まれ絶望的になろうと、宇宙の全生命を創造し神性を賦与した力は決して自分をお見捨てにならないと信じる。知識と経験による不動の基盤の上に築いた完璧な信念に安住して、私は絶対に動じない、と。」
真の信仰を身につけるために語った、このシルバーバーチの言葉から受ける印象は、参加者によってそれぞれ違っていました。
必ずしも好意的に受け取れない場合もあるようでした。
それは、このシルバーバーチの言葉を誰に向けて言うのか?ということを抜きにして、「シルバーバーチだから(間違いない)」というのは如何なものでしょうか?ということでした。
簡単に言うと、それは自分に向けて言う言葉であると思うし、それをそのまま家族や友人、知人などに言ったら、狂人とまでは言わないけれども確実に変な人に思われるでしょう。もしかしたら、カルト集団に足を突っ込んでいる危ない人だと思われるかもしれません。
ちなみに”カルト”とは、辞書によると、特定の対象を熱狂的に崇拝したり礼拝したりすること。また、その集団。異端的宗教。他には、カリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まり。とあります。
今思えば40年以上前の子供の頃に、私があこがれた心霊治療家もカルト的だったと思います。
(他界されたその方は、どんどんお金にがめつくなり、お金のない弱者を切り捨てていき、最後にはボケてしまわれたそうです。それでも後に残された取り巻きの人たちは、そのような情報を隠すために嘘を付きつつ、一方では神のことや心霊治療のことを語るのですから、それが不思議で滑稽に感じました。)
でもその頃は、(数年の間ですが)その人が世界で一番の心霊治療家だと思っていたし、神さまに等しいとさえ思っていました。
そう考えると、自分を客観視することはとても大切なことだと思います。
今回、参加者の方たちの話を聞いて私が感じたのは、人それぞれ感じ方が違うことと、それぞれの方の話が良かったこと、さらに、人それぞれに合った答え(正解)があること。というものです。
話を戻すと、けっきょく相手に語る言葉が、相手を励まそうと思って話している言葉なのか?相手を自分好みに変えたいと思って話している言葉なのか?または、自分の信念の正しさを相手に受け入れさせるために話している言葉なのか?というように、言葉の中身(動機)を考える必要があると感じています。
ですから何故、シルバーバーチは、その当時にそのように語ったのだろうか?ということに思いを馳せることも良いと思います。
最後に、今、私が仕事の合間に読んでいる本を紹介して終わりたいと思います。
「今日、誰のために生きる?」アフリカの小さな村が教えてくれた幸せがずっと続く30の物語 (ひすいこたろう×SHOGEN)
この本の中で、「自己犠牲は、神さまがもっとも悲しむ生き方」であると書かれています。
この言葉だけをみると、シルバーバーチの霊訓で語られている言葉と相反するのですが、書かれている内容をみると、そうとも言えないことを感じました。
きっと、行く着く先は同じであっても、辿る道は人それぞれに用意されているというのが、本当の所なのかもしれません。
今回は以上となります。
2024年10月7日月曜日
昨日に開催した「シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(四)三章 再生の原理」60ページ終わりまで。
この章では、次のような質問で始まります。
56ページ6行目、
──意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。
私が初めてこの質問に触れたときに、この質問者の方の発想の凄さに驚きを感じました。と言うのは、私にとっての”意識が部分的に分かれて機能すること”というのは、霊の憑依などにより自分とは別の意識が入り込んでしまったり、多重人格と呼ばれている解離性同一症などであって、いわゆる普通ではない状態の時のことであったからです。
その質問に、シルバーバーチは次のように答えています。
56ページ7行目、
「今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。それらのホンの一部(分霊)がいま地上という物質界でそのあなたを通じて表現されているわけです。」
シルバーバーチによれば、”わたし”とは、”わたしと言える大きな意識体"のホンの一部であり、そのホンの一部である”わたし”を通じて”わたしと言える大きな意識体”を地上で表現している存在であると言えます。
ここで私なりに言葉通りの解釈をすると、どうやら”わたし”と言う存在は、大きな意識体の”道具の一つ”であるような感じがします。言い方を変えれば、大きな意識体の表現方法の一つと言えます。
それで私に浮かんできたのが、”神の道具”という言葉でした。
これまでの私の中の”神の道具”と言う言葉の意味は、(神事に使う道具類は別として)神と共に生き、神のために働くことでした。
けれども、シルバーバーチの霊訓を読んで学ぶようになってからは、すでに”わたし”という存在そのものが神の一部を表現するための神の道具であるように感じました。
つまり、”誰もがみんな神の一部を表現している神の一部であり、誰もがみんな神の道具である”ということなのかもしれません。
もしかしたら私たちという存在は、私たちが考えられる以上の、もっと大きなさらに大きな存在である神の一部のそのまた一部のさらにそのまた一部というようなことが繰り返されてきた存在なのかもしれないと思いました。
そして、次のような考えに至るようになりました。
もしかしたら、私たちは本当に神の一部なのかもしれないと。(これまでは頭ではわかっていても、それほど実感が持てませんでした。)
けっきょく私たちが行く着く先は、シルバーバーチの霊訓で語られている大霊であり、わたしという存在は、大霊のホンのわずかな一部だとしても、その大霊を表現している一つの存在であるのでしょう。
だから私たちは、誰もが兄弟姉妹であると言われているのだと思います。
59ページ10行目に、次のような質問がされています。
「一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。」
60ページ1行目、
「これは説明の難しい問題です。あなた方には、”生きている”ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。」
ここで私が思ったのは、「自分が何々より上だとか下だとかという発想が出てくるのは、意識の及ぶ範囲が自分中心のごく狭い範囲でしかないからではないのか?」ということでした。
たとえば、この地上では人間が一番の存在であるとして、その一番である人間の中でさらに一番であればとても凄いことなのでしょうけど、たぶん、この広大過ぎる宇宙的視点から見れば、どんぐりの背比べ以下でしかないのかもしれません。
そのようなことを私が思ってからは、他人と比較して、自分が上とか下とかという発想そのものが何だか滑稽に思えてきたのです。
気が付けば、この宇宙に存在する人間的な存在がこの地球だけに限らないと感じてからは、なおさらそのように思うようになって、自分を高く見せようとすることが、何だかとても恥ずかしく思えてくるようになっていました。
さらに子供の頃から思い描いてきた(程度の)高い霊界に行きたいとかという発想も薄れてしまい、いずれは霊の世界にある”故郷に帰ろう”という思いに変わってきたのです。
今では、死後の天国や地獄、あるいは、高級霊界とか低級霊界とかいう発想もどうでも良いと思えてきて、自分が進むべき道を歩んで、自分が望む世界に行きつけば良いと思うようになってきました。
何故なら私たちはどこの世界にいようと、大霊の一部であり続けることを知ってしまったからです。
私にとっては、界が高いとか低いとかよりも、その世界がどれだけ愛に満ちているかどうかの方に興味があります。
最後に、シルバーバーチが語る”再生”についての話は、尽きることのない話だと思いますし、とても興味深く感じます。
とにかく、この”再生”というテーマについて語ろうと思うと、いろいろな方向へ脱線してしまうので、今回はこれで終えたいと思います。
2024年9月15日日曜日
今日、開催した「オンライン読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」195ページ2行目から198ページ8行目まで。
今回のシルバーバーチの霊訓では、原子力の是非について語られています。
195ページ8行目、
「私は原子力が悪だとは思いません。その使用法が邪悪になることは有りえます。しかし反対に測り知れない恩恵をもたらすこともできます。そのカギを握るのは、その途方もないエネルギーを管理する、あるいは管理を誤るかも知れない立場にある人たちです。」
このシルバーバーチの意見には、たぶんスピリチュアリストと呼ばれる方たちの中でも賛否が分かれるかもしれません。
特に日本では、広島・長崎への原爆投下のみならず、福島第一原子力発電事故の被害があります。
そういうこともあって、今回の読書会では、「このシルバーバーチへの質問が、日本に原爆が投下される前なのか?後なのか?」ということにも注目された方がいました。
そもそも、このジャーナリストが日本への原爆投下のことを知っていたならば、質問の内容が違っていたのではないのか?と思いました。
原子力について、私には専門的な知識がないことから、シルバーバーチの意見が正しいのか?あるいは、そうではないのか?今の私には判断できません。
けれども原子力そのものが悪だとは思いませんので、やはり、シルバーバーチが述べているように原子力を扱う側によって、その見方も変わってくるのだと思います。
それに付け加えて、原子力によって恩恵を受けている人と被害を受けている人とでは、同じ意見ではないと思います。原子力を善にするのも悪にするのも、そこに人間が関わっているからこそなのだと思います。
シルバーバーチでさえ、「私は原子力が悪だとは思いません。」と自分の意見として語っていますので、私はいろいろな意見や感想があっても良いと感じました。
その他のことについても読書会の場で話が出ましたが、今回は以上とさせていただきます。
2024年9月7日土曜日
今回は、ちょっとした補足になります。
「シルバーバーチの霊訓(四)二章 〝苦〟の哲学」で、訳者である近藤千雄氏が述べている箇所(52ページ11行目~)が、読書会の場で注目されたので紹介したいと思います。
「別のところでもシルバーバーチは、人類愛や博愛精神を説く一見崇高そうな人間の心の奥にも、霊界から見ると”オレこそは”といった自惚れと野心がうごめいているのがよく読み取れると言っている。」
私がシルバーバーチ読書会で学ぶようになる前までは、こう言ったら恥ずかしいのですが、「本当の自分は今の自分と違って特別な存在なのだ」と思いたい自分がありました。
私の場合は、いつまでたっても現実逃避をしたい自分がいて、そのような英雄症候群も一つの現われだと感じています。
それと、今までは「ほんの少しでも、他人よりは(物質的にも霊的にも)上でありたい」という願望がありました。
今振り返っていみると、”自分が他人よりも上で特別でありたい”というこれらの思いは、自分の根底に”自分は他人よりも幸せではないし劣っている”という劣等感があったからだと思います。
53ページ4行目、
「何事も動機に帰着します。摂理をごまかすことはできません。摂理は各自の魂に入力されております。そしてあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる観念、あらゆる願望が細大もらさず魂のオーラに印象づけられていきます。霊の目をもって見れば、そのすべてが一目瞭然です。地上生活での行為がいかなる意図のもとに為されたかが明確に知れます。あなた方の魂は霊の目の前では裸も同然です」
ところで、私は初めてシルバーバーチ読書会に参加してから9年が経ち、今は10年目となります。その間にスピリチュアリスト、霊能者、ヒーラーと呼ばれる方たちとお会いしてきました。が、その中には「あなた方の魂は霊の目の前では裸も同然です」という、シルバーバーチの言葉を理解されていないような方も見受けられました。
これまでの私は、自分を高く見せようとすればするほど、霊的には低く扱われていくことを嫌と言うほど経験してきたので、みなさんもナザレのイエスの教えにある通りに、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」ということを忘れない方が良いと思います。
さらに私の経験から、自分が自分を愛して受け入れることが出来るようになっていくと、わざわざ他人と比較して自分を高くしようとする必要がないので、他人を低くすることで自分の価値を高めるようなこともしなくなりました。
それと合わせて、他人の優しさや思いやりを感じることが出来るようになってきたことは、私の中では本当に大きな出来事だと言えます。
自分が他人を見る時に、その人の悪い面を先に見ようとするのか、あるいは、良い面を先に見ようとするのか、ということも、自分がどのような存在であるのかの一つの目安になると思います。
今回は、以上となります。
2024年9月1日日曜日
本日開催した「シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)二章 〝苦〟の哲学」(45ページ8行目から)です。
今回は、シルバーバーチの霊訓の他にも台風などの話も出て、みなさんといろいろな話が出来たので楽しかったです。
内容については、改めて報告したいと思います。
2024年8月21日水曜日
昨日、火曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」第7章 相応の法則 2 完全な─上から下まで
第8章 つり合いの法則 1 調和の働き となります。
今回のホワイトイーグル読書会から、第3火曜日の夜に開催されることになりました。(シルバーバーチ読書会は、第1火曜日の夜になります。)
私は読書会の曜日が変更になったことを、昨日、仕事を終えるまでは覚えていたものの、その後すっかり私の頭から抜け落ちてしまいました。
そのため今回の読書会は、ちりりんさんからの連絡を見て、遅れての参加となりました。
それでは、参加者の方の話を聞いた感想を述べたいと思います。
最初に、他人をジャッジしないように努力をされている方の話を聞いて、やっぱり、心のどこかで(それが物質的なものか精神的なものかはともかく)相手に何らかの見返りを求めてしまうために、他人をジャッジしてしまうのかもしれないと思いました。
さらに、「地上に再生してきた時には、これまでのこと(前世のこと)をほとんど忘れてしまっているのだから、今世のことも”どうせ忘れてしまう”でしょう。」と思えるようになって、執着する気持ちが無くなってきたという話も面白かったです。
次の、ちりりんさんのカルマについての話も考えさせられるものでした。
ちりりんさんによると、カルマの解消を数字に表すとすれば、マイナス1がゼロに戻るのではなく、マイナス1がプラス1になるということでした。
そういう理由から、カルマの法則に対して悲観的になる必要はないということでした。
ちりりんさんの説明では、カルマの法則を数字にして考えると、絶対値(数字の大きさ)は距離であり、符号(プラスやマイナス)は方向となりますが、数字が大きいほどカルマも大きくなり、それがプラス(善)なのかマイナス(悪)なのかで違ってきます。
たとえば、マイナスのカルマを解消すれば、マイナスをゼロに戻すだけではなく、マイナスと同じだけのものがプラスの方へともたらされるということでした。
さらに、172ページ終わりの「神がお返しを与えないことはないからです。」という言葉にもあるように、そこに「償いの法則」が働いているということも覚えていた方が良いということでした。
これまでの考えで方では、カルマの解消という経験を通じて、スパイラル的に自らが成長することによって、マイナスがプラスに転じていくという視点で考えてきました。
今回の読書会での話を聞いて、それに加えて、「法則そのものが、マイナスがプラスに転じていくように配慮されている」ように感じました。
もしもそれが確信できるようになれば、(そのために、とても長い期間を必要とするかもしれませんが)どのようなことがあっても、その結果は全て良いものになることがわかるのかもしれませんね。
まだまだ私は勉強中ですので、今回の報告の内容も、一つの参考として読んで下さい。
それでは、以上となります。
2024年8月19日月曜日
昨日開催の「オンライン・シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」192ページ5行目から195ページ1行目までとなります。
192ページ5行目で、
「──凶暴な犯罪は死刑制度によって解決できると思われますか。」と質問されています。
それに対してシルバーバーチは、
「そうした報復的手段では何一つ解決できないでしょう。愛は摂理を成就することであると言います。」と答えています。
この「摂理を成就する」という言葉の意味を、私は何となくわかっているようで、あまりわかっていないということに気が付きました。
摂理の意味を辞書(デジタル大辞泉)で調べると、一つ目は、「自然界を支配している法則」と言う意味になり、二つ目は、「キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。」という意味になります。
成就とは、物事を成し遂げたり、願いを叶えたりすることを意味します。
そもそも「自然界を支配している法則は、どうして存在するのか?あるいは、どのような存在がつくったのか?」と問われれば、現時点で世界の30パーセント以上(約25億人)を占めるキリスト教の世界では、それは神だと答えられるのでしょう。
しかし、シルバーバーチの霊訓と出会う前までの私は、「神の計画を実現するために、自然界を支配している法則がある。または、神の意志や配慮によって、自然界を支配している法則がある。」という発想そのものがありませんでした。
それらを踏まえて考えると、報復的な手段は、愛ではないし、神の計画や意志に叶ってはいないということになります。
193ページ2行目の
「それに、人間はとかく過ちを犯しがちなものであるこも考慮してやらないといけません。」という個所を読んで、「やはり人間って、過ちを犯しがちなものなんだな~。」としみじみと語った方もおられます。
また、参加者の方の夫が長年にわたって保護司をされていたそうなのですが、聞くところによると、みんながみんな更生できるのかと言えば、残念ながらそうではないのが現状のようです。
ところで、これは最近に限ったことではないのですが、「シルバーバーチは難しい」という話を聞くことがあります。
それは、人によって”難しい”という意味が違っているのだと思います。が、私の場合、”わかっているようでわかっていないことの方が多い”という意味で難しいのです。そうであるから、学んだことを実践に生かしきれていないのだと思います。
それはそれとして、こうして読書会の報告をすることで理解が深まっていくのは嬉しいことです。
194ページ1行目では、
「──職業柄、私は多くの人間が恐ろしい行為によってあたら生命を失っていくのを見てきました。そして、しばしば思ったことですが、そうした犯罪が二度と起きなくするために、そちらで復讐心に燃えている霊たちを説得していただけないでしょうか。」と、初めてホームサークルに出席した刑事の方が質問されています。
それに対して、「残念ながらそういった人たちはみな地縛霊となっており、みずからこしらえた牢獄に光が差し込むまでには大変な時間を要します。」とシルバーバーチは答えています。
問題は、犯罪を起こした方だけにあるのではなく、それによって生命を奪われた方にも存在し、双方に「やられたらやり返す」という負の連鎖が続いてしまうこともあるようです。
そのような理解をすれば、194ページ9行目の
「──私は阻止することこそ公正であると考えておりました。」という質問の意味がわかってくると思います。
私の理解によると、質問者である刑事の方にとっては、「やられたらやり返す」という負の連鎖を霊の世界で阻止することが公正なことだったようです。
しかしシルバーバーチは、(神界の存在であっても本人の意志に反して)力ずくで行うことが出来ないことを述べています。
「みずからこしらえた牢獄」とあるように、実際に「自分をとりまく世界をつくっているのは、自分である」というのが本当の所なのでしょう。
194ページ10行目で、
「旧約聖書では、”目には目を、歯には歯を”でしたが、新約聖書ではイエスが隣人への愛を説いただけではなく、自分を憎む者をも愛せよ、と述べています。」とあり、
続けて、「何ごとも最後は動機が問題となります。動機さえ正しければ、すべてがうまく収まります。」と語られています。
今回、そのようにシルバーバーチは語られていますが、必ずしも”動機さえ正しければ何をやっても良い”と言う意味ではないことを、他のところでは述べられています。
「自分を憎む者をも愛せよ」ということを、私が偽りなく実践できるのならば、(それが実践できるほど成長しているならば、)私の中に漠然と存在する将来への不安感も解消されるように感じます。
何故なら、自分への理不尽な出来事でさえ愛することができるのでしょうから、世界が自分の思い通りになっていないとしても、そのような世界でさえ愛することが出来ると思うのです。
最後に、読書会の終わりの方で、”霊と物質”の理解を深めるために、”無と有”ということについて話しました。
私たちからすれば、きっと霊と物質とは別々のもの、あるいは正反対のものであるように感じるのではないでしょうか?それは、無と有ということについてもそうだと思われます。
ここでは具体的な話をすることはないのですが、私は霊(大霊)について考える時に幸せを感じます。
ということで、今回の報告を終えたいと思います。
2024年8月12日月曜日
先週の金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告をしたいと思います。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)一章 戦時下の交霊会から(18ページ1行目まで)」となります。
今回は、初参加の方を交えての読書会となりました。
その方の感想がとても印象に残っています。先に、少しだけ紹介させていただきます。
その方は、今まで他の読書会にも参加したことがなかったそうなのですが、みんなとシルバーバーチの霊訓を輪読することにとても感動されていたようでした。
そして、シルバーバーチの霊訓を学ぶようになって、自分には帰る場所(霊の世界)があることを知って、とても安心されたという感想を聞いて、その方の純真さが私の心の中まで響いてきました。
「初心にかえる」と言う言葉がありますが、今の私に必要なのは、純真な気持ちを忘れないということなのだと思います。
10ページ7行目、
「人間が次から次へと死に、しかも地上の愛する者との連絡が取れない状態では、全体の雰囲気が不満に満ちた感情で埋めつくされ、それが霊界との交信の障害となります。私たちは今こうして地上にきております。その地上の人間が次々と死んでは地上との縁を求めようとすることが障害となるのです。」
続いてシルバーバーチは、「他界した数知れぬ人間が地上との縁を求めます。」と述べています。が、世間で霊能者と呼ばれている人たちの中には、このような状態の人たちを、地縛霊とか未成仏霊とか、あるいは低級霊とか悪霊とかのように呼んで、まるで欠陥商品であるかのような扱いをされる方もおられます。
たとえそのような状態の霊たちであったとしても、シルバーバーチは同じスピリットとして見ていることがわかるので嬉しく感じます。
13ページ6行目、
「霊界は実にうまく組織された世界です。各自が持って生まれた才能──地上ではそれが未開発のままで終わることが多いのですが──それが自然な発達の過程を経て成熟し、それぞれに最も相応しい仕事に自然に携わることになります。」
地上と違って、霊の世界での仕事は楽しそうですね。
16ページ5行目、
「が、そのうち──霊的意識の発達程度によってそれが何分であったり何時間であったり何か月であったり何年であったり何世紀であったりしますが──いつかは自覚が芽生えます。その時やっと援助の手が差しのべられるのです。」
17ページ7行目、
「みずから望まないかぎり、何の看護もされないまま放っておかれる人は一人もいないということです。」
これは援助をする側のスピリットの霊性も関係するのかもしれませんが、結局は、「自分を救うのは自分である」ということなのだと思います。
そのように自分を救えるのは自分次第であるのですが、けれども時々、神から特別に選ばれた人がどこかしらに現れるようなのです。そして、その方たちの話を聞く限り、これまで未成仏霊などと呼ばれているスピリットを何十億人をも(その方たちのを合わせるとその何倍以上も)救ってきたそうなのです。
そのように人類を救いに来たと言う人は多いのですが、人類に奉仕をするために来たと言う人はほとんど見かけません。
それと、当たり前ですが奉仕をする人は、自分の霊格の高さや凄さを主張する必要はないのですが、人類を救いに来た人は、もしかしたら霊格の高さや凄さをみんなに主張する必要があるのかもしれませんね。
もっとも、数十億人のスピリットを救ってきたことが真実であるならば、こうして私たちがシルバーバーチの霊訓を学ぶ必要もないのかもしれません。
でも、そのような報告を私と関わりのある人やスピリットからは聞いたことがないので、もしかしたら、私が関わっている世界とは違う世界での話なのかもしれません。
今回の読書会では、他にも、スピリットのどこを注目して意識を向けるかによって、そのスピリットの姿が異なってくるという話も聞けました。
つまり同じスピリットであっても、見る側によっては、それが善霊にも悪霊にも見える可能性があるのかもしれません。
どれが真実なのかは、自分の成長と共に自分自身でつかみ取っていくしかないと感じております。
ということで、今回の報告を終えたいと思います。
202年8月4日日曜日
本日開催した「シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)二章 〝苦〟の哲学」40ページから45ページ7行目まで
冒頭で、「シルバーバーチが神の摂理を説くとき、その絶対性への確信があまりに深く、その述べ方があまりにあっさりとしているために、われわれ地上の人間には冷淡な印象すら与えることがある。」と述べられています。
この文章を改めて読んでみて、人によってはシルバーバーチが語る言葉を冷淡に感じる場合があることに気が付きました。
私はこの部分を読むことによって、なぜか安心しました。何故なら、私もそう感じたことがあるし、他の人もそう感じたことがあるのを聞いていたからです。
もしもシルバーバーチが語る言葉に対して、それが素直に感じたことであったとしても、”ここで伝えてしまったら都合が悪い”という理由から、その気持ちを隠したり、押し殺したりするならば、それはとても悲しいことだと思います。
少なくとも私は、人間として優等生になることを目指してシルバーバーチの霊訓を学んでいるわけではないので、そのように思うのかもしれません。
ですので自分でも時々、「こういういたって普通の人間がシルバーバーチ読書会を開催して良いのであろうか」と思う時があります。が、「逆に、そんな私だから出来ることがあるのかもしれない」と思うようにしています。
41ページ4行目、
「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。」
「過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の難問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。」
ここで語られていることは、私もまったくその通りだと思っています。(それでも苦を好きになれません。)
それから苦に対する認識に限らず、43ページの最後でも述べられていますが、地上は影の世界であり、霊の世界こそが実在であるということですから、一般の人たちが抱く世界の認識と、シルバーバーチの霊訓で語られている世界の認識とでは、まったくの正反対であるということも知ってもらいたいと思います。
ところで、最近の私の苦の体験は、7月の「その他のお知らせ」で報告したので内容は割愛しますが、それによって自分への理解がさらに深まったことだけは確かです。
その理解とは、読書会の報告には書いていなかったのですが、7月25日のホワイトイーグル読書会で輪読された箇所の言葉にふれた時、私は身体に電気が走ったような強い衝撃を受けたのです。
それは、「イエスは、罪と無知のなかにいる魂に奉仕したのです。」という言葉です。
何故、私はその時に強い衝撃を受けたのか?について、何度も振り返ってみました。
振り返って掴んだ内容は以下の通りです。
今までの私は、「イエスは人類を救うために地上に生まれてきたのだ」と思っていました。
けれども今の私は、「イエスは人類に奉仕するために地上に生まれてきたのだ」という理解に至ったのです。
どういうことかと言うと、私の成長を止めている原因の一つが”高慢”なのですが、私の中の「人を救う」という思いの中に、それが隠されていたことを発見しました。
「救う」という行為は、対象の意志とは無関係にマイナス状態の領域から引き上げるという意味であることから、救う行為が相手の意志を必ずしも尊重するわけではなく、むしろ救う側の意志を優先することで成り立つと言えます。
さらにもっともやっかいだったのは、「救う」という私の思いの中に、救われる側の相手よりも「自分は上なのだ」という自惚れや高ぶりが含まれていたことです。
しかも、救う側であることは、特別な存在であるというオマケつきです。
これはあくまで私の中での話ですが、私は過去世から、霊的に無知であると思っている人類に対し、ずっと見下してきたのだと今は感じとることが出来ます。
そして、「私は人を救うために、この地上に再生してきた」のではなく、「私は人に奉仕するために、この地上に再生してきた」ということが抜け落ちていたのだと思えるようになりました。
けれどもなぜ、私は今までシルバーバーチの霊訓を学んできたのに、シルバーバーチが語る”サービス”について、あまり理解が出来ていなかったのでしょうか?
きっとそれは、私が抱いてきた”神‘に対する概念”を解明していくことで、わかってくるように感じています。
それに加えて、自分が人よりも霊的に高いと思っていても、実際にはその反対であったこと。さらには、愛ということにも関係しているように感じています。
それらがわかっただけでも、今回の苦の体験は無駄ではなかったと言えそうです。
ということで、今回は以上となります。
2024年7月27日土曜日
7月25日木曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」第6章 3 自然に任せ、神に任せる(156ページから)及び 第7章 相応の法則 1マスターに従う となります。
今回の読書会から、第4木曜日の21時から22時へと開催日が変更されました。
まずはじめに、私が辛い状況に陥っている時に癒しを与えてくれるのが、このホワイトイーグルであることを伝えておきたいと思います。
もちろん私は、シルバーバーチ読書会を開催していることもあって、おすすめの本は何か?と聞かれれば、「シルバー・バーチの霊訓」と答えるでしょう。
それでも、ホワイトイーグル読書会に参加し続け、北神戸ぷちサークルのみなさんたちと学び続けるうちに、少しずつですが、ホワイトイーグルの語る言葉から愛を感じられるようになってきました。
156ページ7行目、
「人々は、時に苦しんだり、とても悲しんだりします。彼らの人生は破たんし、暗い状況にあるように見えますが、これは長くは続きません。この状況は通り過ぎます。そして苦しんでいる人々は、次第にスピリチュアルの発展プロセスを経験することになります。それによって、かつて知ることのなかった光、喜び、そして美がもたらされます。」
もしも自分の中に先の見えない不安や恐怖がある時に、シルバーバーチの霊訓を学んでいくと、”不安や恐怖の念を抱いていはいけません”というような言葉が目につくと思います。
でも私はここで言いたいのです。「ちょっと待ってください、それが出来たら、今ここでシルバーバーチの霊訓を読んでいないと思いますよ」と。
さらに、「あなたは未熟だから、不安になったり恐怖心を持つんですよ」などのように言われ、別の個所では、人間である限り完璧にはなれないようなことも書かれているし、しかも、何の苦難もない人生では成長が出来ないと言われているのですから、未熟な私は一体どうすればいいのでしょうか?(とは言ったものの、シルバーバーチがそれぞれ話す相手に合わせて語っていることを知れば、その時その時の状況で話す内容が違ってくるのも理解できると思います。)
これが不思議と、ホワイトイーグルの本も合わせて読むことで、いつの間にか不安や恐怖の念がやわらいでくるのです。
たぶん、ホワイトイーグルの場合は、「何々を得たければ何々をしなけらばならない。というような条件付きの言葉が少ないからかもしれませんし、何となく自分も含めて誰もが愛されているんだな~。」と感じるようになったからかもしれません。
今回、読書会の参加者たちの話を聞いて感じたことは、そのようなネガティブな(今回の例では、ミスや失敗を繰り返した)時は、嵐が過ぎるのを待つように、ジタバタせずに状況が通り過ぎるのを待った方が良いということでした。
その嵐はいつか通り過ぎるでしょうし、その嵐によって、ステップアップ(進歩すること。向上すること。)が出来るということでした。
そのような仕組みを知ることで、自分が辛い状況にある時であっても、「あっこれは、次のステップアップのために起こっていることだ」と感じられるようになるそうです。
なるほど、そもそも不安や恐怖の念を抱くのは、先が見えないからでしょうし、言い換えれば、もしも結果がハッピーエンドであることを自分が知っているならば、そのような念を抱くことはないと思います。
どうやら、誰もがステップアップするために必要な状況(出来事)っていうのがあるようなのです。
と言うことで、読書会のみなさんの実体験を通した学びの話は、私の成長の糧になっています。
もちろん、自分の話を聞いてもらえることも嬉しいです。
それではこれで報告を終えたいと思います。
次回の読書会も楽しみにしています。
みなさんお疲れ様でした。
2024年7月21日日曜日
本日開催の足立シルバーバーチ読書会(オンライン)の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」188ページ9行目から192ページ4行目までとなります。
今回は、参加者の方が疑問に思った部分を紹介して終えたいと思います。
190ページ9行目、
「遠い昔から人間は地球の悲劇の予言をいくつもして来ました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うというのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。」
ここで語られているキリストとは、ナザレのイエスのことであると思われますが、参加者の方の疑問としては、イエスという名を使わずに、キリストと呼んでいるのは、何か理由でもあるのでしょうか?というものでした。
また、ここではシルバーバーチがキリストの再臨を否定されていることから、少なくとも地上では、イエスの再臨はないということになるのでしょうか?という質問もありました。
これらの疑問や質問に対しては、今の段階で、私が明確な答えを出せるわけではないので、それぞれの方の判断にゆだねることしか出来ませんでした。
そういう私は、「キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。」と言い切っている所が、少し意外に感じました。
と言うことで、今回は終えたいと思います。
2024年7月15日月曜日
今回は、「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告の続きです。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)十三章 質問に答える の後半となります。
206ページ4行目、
──スピリチュアリズム普及のために活躍しておられる人がとかく物的生活面で苦労が多いのはなぜでしょうか。
「真理のために身を捧げる者は徹底的に試練を味わう必要があるからです。霊の大軍に所属する者はいかなる困難にも耐え、いかなる障害にも対処し、あらゆる問題を征服するだけの強さを身につけなければなりません。」
206ページ11行目、
「一見ただの挫折のように思えても、実際はみな計画された試練なのです。人を導こうとする者が安逸の生活をむさぼり、試練もなくストレスもなく嵐も困難も体験もしないでいては、その後に待ちうける大事業に耐えうる性格も霊力も身につかないでしょう」
この部分の感想をみなさんに聞いてみると、人によって受け止め方は実にさまざまで、それぞれ違いがあることがわかりました。
私の場合は、自分に起こる不運の原因がこれでわかった気がして、随分と慰められたように思います。実際は、それだけ私が未熟で弱い存在であるということでもあるのでしょう。今の私はその事実を受け入れる程度には、成長して強くなったと思います。
一方で、シルバーバーチの霊訓の学びや実践を途中で断念される方がいます。受け入れられない理由は人それぞれだと思いますが、その理由の一つに、シルバーバーチの霊訓を学べば学ぶほど、自分が苦しくなってしまう場合があるようです。
たとえば先の文章を、「スピリチュアリズム普及のために頑張ると、物的生活で苦労する」というように、自分の中で変換して刷り込んでしまう場合があるようです。
そのような場合で、すでに物的生活で苦労している人にとっては、「スピリチュアリズムの普及活動とは、さらなる苦しみを伴うもの」として受け止めてしまうのかもしれません。
あるいは、「物的生活で苦労していない人は、スピリチュアリズムの普及を頑張っていないということ」というように受け止めてしまうかもしれません。
さらに付け加えると、次のようなことも考えられます。
「シルバーバーチの教えの通りに生きることが出来なかったら、人として失格だ」もしくは、「高級な霊界に行くことが出来ない」というように。
ちょっとここで想像してもらいたいのですが、もしも、このようなネガティブな思いを抱いたままの人たちが集まって、シルバーバーチの霊訓を共に学んでいったとすれば、やはり、ある時点になると、上手くいかなくなると思うのです。
さらに、シルバーバーチの霊訓そのものを、キリスト教の聖書のように扱っていないかのチェックも必要だと思います。
ここで改めて、先の質問とシルバーバーチの答えを考えてみたいと思います。
ここでのシルバーバーチは、スピリチュアリズム普及のために頑張っている人の生活苦が、本人のせいでそうなっているのではなく、それだけ霊の世界から期待されているためにそうなっていることを説明し、質問者たちを励まそうとされたのではないでしょうか?
しかし、これは、スピリチュアリズムに肯定的な人たちにとっては受け入れられても、スピリチュアリズムに否定的な人たちにとっては、「それは屁理屈だ」として受け入れない方もおられます。
聖書を絶対視されている人もそうですが、特に物質的な視点のみで世界を生きている人にとっては、「物質ではない何かのために苦しむ」と言う発想自体がおかしいのかもしれませんね。
まぁ、それはそれとして、これは私に問題があるのかもしれませんが、シルバーバーチの霊訓では、「霊の大軍に所属する者」というように、霊の組織を軍隊に例える言葉が度々使われています。
私の勉強不足が原因だと思われますが、ナザレのイエスと軍隊とが私には結びつかないのです。もしかしたら、神の計画のために戦う組織だから軍の組織であるということなのでしょうか?
私はそのような言葉使いに対して、いつも違和感を抱いてしまうのです。私にとっては、何となくキリスト教に対応して使っている言葉のような気がしますが、これについては良く分からないというのが私の思いです。
そして、その違和感は私が感じるスピリットとのつながりが、どこまでも”愛”であるのを感じていることが理由だと思います。が同時に、他に良い表現方法がないようにも感じています。
けっきょく、私は何が言いたかったかと言いますと、シルバーバーチの霊訓の中にある、たった一つの文章や言葉使いを取り上げたとしても、人それぞれ受け止め方が違うということです。
そのことは、読書会を通して私が掴んできたことでもあります。やはり、私を含めて、どの人が正解とか間違っているとかの問題ではないと感じています。
最後に、読書会を通じてみなさんとの受け止め方の違いを知ることが面白いので、これからも読書会の方々と、シルバーバーチの霊訓の学びと実践を続けていきたいと思っています。
今回の報告も、私の一意見でしかありませんので、みなさんご了承ください。
2024年7月13日土曜日
昨日の「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告をしたいと思います。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)十三章 質問に答える の前回の続きからとなります。
今回、私は仕事の都合で、みなさんが輪読を終えた後の途中参加となりました。
内容については、後日、報告したいと思います。
2024年7月7日日曜日
本日開催した「足立シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(四)一章 絶対不変の摂理」 33ページ3行目からとなります。
33ページ7行目、
「自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。神の摂理は私たちも変えることができません。」
私の経験で言うと、このことを自分が本当の意味で受け入れるまでには、とても長い時間とけっこうな苦の経験を必要としました。
何故かと言えば、私は子供の頃から私を守護するスピリットの存在を感じていたので、自分の都合が悪い時には、いつも守護するスピリットに、現実を都合の良いように変えてもらうためのお願いばかりをしていたからです。
まぁ、いわゆる依存というやつです。
今となっては、自分の問題を他者(嗜好品なども含めて)に解決してもらおうとする依存傾向が、喘息などのさまざまな病気を引き起こす一因になっていたと感じています。
さらに、自分の願いが叶えられないのは、私を守護するスピリットの霊格が低いせいだとして、スピリットの力のなさを嘆いたこともありました。
今、こうして書いている途中ですが、私って、その当時、真実を知らなかったとはいえ、つくづく悪いやつだな~と思いました。
だから、この章に出てくるようなシルバーバーチを責めた人たちを批判することは、私には出来ないことなのです。
中には、かつての私のように守護霊の霊格が高いか低いかで、自分の人生が左右されると思っている人がいるかもしれません。
でもよく考えて欲しいのは、もしも守護する霊の力が及ばない時は、私たち人間がそうするように、必要に応じて、他の霊たちの協力を要請するはずです。
ヒーリングだって同じです。もしも自分たちスピリットの手に負えない場合は、スピリット自らが媒介となって、さらに必要な霊力を得るための方法を取るのです。
そのように霊の世界では、協力し合うのが当たり前で、霊格の高いものが下々を一気に救うような方法を取るような話は、この地上や地上に近い霊の世界の物語にはあるようですが、私自身は実際に聞いたことがありません。
私はそのように霊の世界から教わりました。もしかしたら、ただ、私が他を知らないだけなのかもしれませんが……。
35ページ10行目、
「地上の人たちに何とかしてあげたいという願望に駆られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが……。」
問題は、私たち一人ひとりが、神性を宿した種子を内部に持っているのに、自分の外側ばかりに目を向けることによって、その種子が花を開かせることなく、この地上人生を終えてしまうことです。
もしも大霊以上の存在が、自分の外側に存在しているのであれば、またそれがシルバーバーチであろうと、ナザレのイエスであろうと、その他の存在であろうと、そうであるならば、私はその方たちを信仰すれば良いと思っています。
けれども、そうではないと思うのであれば、自分の内部に存在する神性を信じ、それを軸にして生きていくことを大切にして欲しいと思っています。
私たちには、シルバーバーチの教えの通りに、みずからの力でみずからを救うことが出来るのです。
それだけではなく、協力し合うことも、愛を分かち合うことも出来るのです。
それこそが、大霊の愛の一つであると感じています。みんながみんな、大切な存在であるということです。
今回は、以上で終えたいと思います。