2024年6月29日土曜日
昨日、「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」が開催されました。
使用図書は、「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」第6章 2 道は開かれている 3 自然に任せ、神に任せる(150ぺージから155ページまで) の途中までとなります。
内容を紹介するのは、時間の都合により次回にしたいと思いますが、参加者の方の話が、とても興味深くて面白かったです。
何よりも、霊の世界にいるスピリットたちの個性や生命を感じられる話は、信じるとか信じないとかの問題を飛び越えて、私の心に深い感動を与えてくれました。
その話の中の一つをすごく簡単に紹介したいと思います。みなさんが就寝中にスピリットたちと交流していたとしても、ほとんどの人はその時の記憶がないと思われます。
けれども、私たちがそのような状況であっても、スピリットにきちんと感謝の思いを伝えることが出来るならば、そのような経験が皆無であるスピリットの場合は、とても驚かれてしまう場合があるそうです。
たぶん話を聞く限り、感謝の思いを受け取られて、スピリットの方はとても喜んでくれたのだと思います。何故なら、その感謝の思いをはるかに上回る愛と霊力で包んでくれたそうですから。
私はこのような話を聞くだけでも、幸せを感じるみたいですね。
今回は、以上となります。
2024年6月17日月曜日
それでは、6月のオンライン読書会の報告をしたいと思います。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」185ページ8行目から188ページ8行目まで
185ページ10行目、
「自由意志のない操り人形にしてもよかったのです。が、自由意志による選択の余地を与えられることによって、人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会がもてることになったのです。」
私が「シルバーバーチの霊訓」を読むまでは、自由意志を持っていることが当たり前だと思って生きてきました。そのため、「もしもここが自由意志を持つことを許されない世界だとすれば」というような考えはなかったです。
186ページ2行目、
「戦争、暴力、貪欲、情欲、利己主義がはびこるのは物質中心の考え方をするからです。そういう考え方をするのは、これほど多くの宗教が存在しながら大半の人間が肉体が死ねばすべておしまいと思っているからです。」
このことは、シルバーバーチが語る通りだと私も思っています。人によっては、確かに死後の世界を信じているように見えても、相変わらず物質中心の生き方をされている方もいると思われます。
おそらくそのような人は、「地上で生きている今も霊である」ということまで考えが及ばないのだと思われます。
今回、参加者の方の家族の問題などを聞かせてもらいました。
自分の家族に、自分さえよければ良いという考えの方がいれば、当然のように、いろいろな問題が起きるようです。私は話を聞いただけですが、本当に大変だと思いました。
186ページ14行目、
「良い行いをすればそれだけ幸せを味わいます。利己的な行いをすればそれだけ苦い思いをさせられます。摂理はごまかせません。」
私が初めてシルバーバーチの霊訓を読んだ頃は、今よりずっとひねくれていましたので、「そのような話は、小さい子供には通用するかもしれないけど、世の中、ずるい人も多いから、良い行いをしたとしても幸せになれるとは限らない」などのように心の中では思っていました。
今でこそ、いろいろな苦の体験を重ねてきたことで、シルバーバーチの語る通りだと思うようになりました。
187ペー9行目、
「よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。」
シルバーバーチによれば、地上生活の存在理由として、さまざまな発達段階の者が混ざり合って生活することによって、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということが挙げられています。
つまり、自分にとって良い事も悪いことも経験できるのが地上世界だということです。
188ページ1行目、
「そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。」
何故、それが必要であるかというと、やはり私たちの魂が霊の世界での幸せな生活を求めているからなのだと思います。
188ページ3行目、
「苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。」
私はこの言葉を信じて、これからも頑張っていこうと思っています。
今回は以上となります。
2024年6月16日日曜日
本日、6月のオンライン・シルバーバーチ読書会を開催しました。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」185ページ8行目から188ページ8行目までです。
内容については、明日以降に報告したいと思います。
2024年6月16日日曜日
先週金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告をしたいと思います。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)十三章 質問に答える 203ページ8行目からとなります。
通信を送るスピリットの身元を明かさないことについて、シルバーバーチは次のように答えています。
203ページ9行目、
「さあ、それはどうでしょうか。これは霊界通信において長いこと問題にされていることですが、(途中省略)それはその人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係ないことであって、そんなことで混乱を生じさせたくないからです。」
もしもシルバーバーチの地上時代が、誰も知らない無名の人物であったとすれば、私たちは今も変わらずその言葉に耳を貸すのでしょうか?
逆にシルバーバーチがとても有名な人物であったとすれば、その語る言葉が今よりも大切なものとして受け入れるのでしょうか?
たぶん、表面的なラベルや肩書にこだわる人ほど、対象によって心が揺れ動くのだと思われます。
たとえば、ナザレのイエスが語った言葉と、誰も知らない無名の聖人の言葉が同じ内容だったとしても、イエスの言葉の方が上で無名の聖人の言葉は下であると無意識の内にも判断してしまうのではないでしょうか?
さらにシルバーバーチ自身が、ナザレのイエスこそが地球人類のリーダーでありトップであることを語っているように思います。
ですが、もしもそのような言葉通りの価値観だけで他の人を見てしまうと、全ての人間はイエスより下という概念が出来上がってしまって、いろいろと問題が出てくるように思われます。(きっと人間からすれば、イエスに関してそう見えたとしても、大霊から見ればそうではないと思っています。)
204ページ7行目、
「大切なのは内容であって通信者ではないとの信念があったからです。霊界通信はその内容によって価値が決まります。」
「身元の証拠を提供するということと、霊的知識を提供することとはまったく別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。」
そういうば、足立の霊団も身元を明かされていません。本当に「無名の霊団」という名前なのではないかと思ったりします。私の中の話ですが、足立の霊団と呼ばれるグループは、おそらく名前を必要としない霊団なのだと感じています。
でも、名前に関する一番の問題は私自身にあって、もしも霊団の名前が明かされたとしたら、「その名前によって、他と比較して優劣をつけてしまうであろう」ということがあるからだそうです。
それだけ私の成長が不十分であるということなのですが、今では「足立の霊団」っていう名前を気に入っています。
(ただ、足立区ってイメージがあまり良くない方なので、少しは足立区のイメージアップにつながるように頑張って行きたいと思っています。)
205ページ6行目、
「なぜなら人間は自由の中に生きるべきだからです。霊と精神と身体が自由でなければならないからです。』
私がシルバーバーチ読書会を開催している理由の一つに、「誰もが自由の中に生きられるようにしたい」というのがあります。
けれども最近、私の内面の成長が追い付いていないことがわかりました。それがわかるようになったことが成長したと言えなくもないのですが、自分でもちょっと気づくのが遅いな~と思っています。
ここからは私の中での出来事を書いているので、もしかしたら何を言っているのかわからないかもしれません。
私の今まで歩んできた道は、どちらかと言うと「正しく善の道を生きること」を追求するような感じだったと思います。でもそれだと大切なものが抜け落ちていたようで、これからは、「自分の中の愛を発現していくこと」が必要であることを理解しました。
ここ最近のことでは、やっと少しだけ、ナザレのイエスが愛について語ったてきたことがとっても大切であり、それが人類を救うことになるという意味がわかってきたと言えると思います。(そのために数ヶ月の間に、ちょっとした辛い経験をしてきました。)
ナザレのイエスが愛について語ったことを、私は知識では知っていたのですが、その真の意味を理解出来ていなかったのです。
まさに、204ページ12行目の
「霊的真理というものは、それを受け入れる用意のある人にしか理解されないことを銘記しなければなりません。」と言うことなのだと感じました。
霊的真理を知識として知っている人は多くいても、それを本当に理解している人は、あまり多くはないということがわかってきました。
禁煙、禁酒、ダイエットなどの経験がある人は、この意味がわかるのではないでしょうか?
もしも霊的真理を理解しているならば、それはあらゆる場面で、その人の思いや言葉、態度などに現れることでしょう。
今日は、これからオンライン読書会があるので、これで終えたいと思います。
2024年6月8日土曜日
前回に引き続き「シルバーバーチ読書会」の報告をしたいと思います。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(四)一章 絶対不変の摂理」(27ページ10行目から33ページ2行目まで)
28ページ13行目、
「あらゆる病を治し、あらゆる困難を克服する力を人間の一人ひとりが宿している事実を地上人類はいまだに悟っておりません。心身が衰弱した時に引き出せる霊力の貯蔵庫を一人ひとりが携えているのです。”神の御国は汝等の心の中にある”――この言葉の真意を理解する人がなんと少ないことでしょう。」
現代においても、この真実を受け入れ、理解している人はまだまだ少ないように感じています。
多くの人が”神の御国は汝等の心の中にある”という神に関する真実を理解できない理由のひとつに、出来る限り順風満帆な人生を送りたいと思っていることがあげられます。
ですから、これまでの信仰や生活に変化を生じさせるようなことは恐怖であり、しかも今まで信仰してきた神が自分の中にいるなんて、とても考えられないことだと思います。
何故なら、「自分たちは神への信仰によって救われていく、つまり天国に行くことが出来るのであって、もしも言葉の通りに神が自分の中にいるのなら、この地上世界で貧困や争いなどが起きたりしないだろう」と。
28ページ2行目、
「いったん心眼が開かれて霊力を伴った愛を受け入れた人、つまり霊的真理の啓示に目覚めた人が、そのあと万一それなりの責任を果たさなかったら、その人はいっそう大きな罰をこうむります。なぜなら、そうと知りつつ怠ったのであり、そうとは知らずに怠ったのではないからです。」
これは経験済みですが、いったん霊的に目覚めたとしても、かつての私のように常に他人をジャッジして、人の粗探しを通じて自分を高めようとしている場合は、その通りになると思います。
それと、今までに何度も地上世界に再生し経験がとても豊かな魂と、その反対の経験がとても少ない魂とでは、やはり霊的な成長の違いによって霊性においても違いが生じてくると思われます。
しかしこれまでの私は、他人に対してそのような配慮をすることなどなく、(自分のことは棚に上げて)他人の非を改めさせることが正しいことだと思っていました。
でも、ある偉大な人の話を知って、今までのそうした私がいかに間違っているのかが理解できたのです。その話はいつか出来れば良いなと思っています。
29ページ3行目、
「生活は行為だけで成り立っているのではありません。口にすること、心に思うことによっても成り立っております。行為さえ立派であれば良いというものではありません。むろん行為がいちばん大切です。しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。」
私はここを読んだとき、とても他人事とは思えませんでした。もう、これまでの人生をやり直したいくらいダメダメな私です。とにかく私のせいで多くの人を傷つけてしまったことは申し訳ないし、お詫びしたいです。
それでも最近の私は、自分の中にある歪んだ部分(図太い固定観念の一部)を見つけて改善したことによって、前より生きるのがだいぶ楽になったと感じています。
私の場合、幸せを感じるためには、自分が未熟であることを理解し、それを受け入れることが出来るかどうかが鍵になるのだと感じています。
今回は以上となります。
2024年6月3日
先日開催した「シルバーバーチ読書会」の報告となります。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(四)一章 絶対不変の摂理」(27ページ10行目から33ページ2行目まで)
27ページ10行目では、
「さらにシルバーバーチはこれからはその法則を絶対的信仰対象にすべきであると説いて続ける。」と書かれています。
ここでの「法則」の意味を考えるヒントとして、27ページ3行目の〈訳者注〉に記されているように、「法則」という言葉は、近藤千雄氏によって英語の「law」を日本語に訳したものであることを知った方が良いと思われます。
何故なら、訳者注にもあるように、「law」という言葉に含まれる意味は、法則の他に、摂理、理法、絶対的原理、真理、神のおきて、神の働きなどが含まれているようです。
私は「霊的真理」という言葉をほとんど使いませんが、霊的真理を学ぶということは、神について学ぶことであり、霊的真理に沿った生き方をするということは、神のように振る舞うということになると思います。
それから、今の私が「法則」という言葉で感じるのは、残念ながら私の中のある一定の所で見えない壁で遮られていて、そこから根源的な存在を感じることが出来ません。
無理にイメージすることなら出来ますし、そのように考えることも出来ますが、まだ、真に理解出来ているとは言えません。
つまり、私の中では「法則」と「神」との間には、大きな溝があるようです。
そのようになる原因はまだわからないのですが、私の凝り固まった先入観、または集合意識と呼ばれるものが邪魔しているのかもしれませんし、ただ単に、私が未熟だからかもしれません。
けれども、「law」という言葉からは、絶対的原理や真理を生み出している根源的な存在が「ある」というのをぼんやりと感じることが出来ます。
ただ、ある宗教家のトップの方は、根源的な存在が「ない」と言われていますので、その方にとっては、そもそも大霊が存在しないということになるのでしょうね。
それは人それぞれなのだと思いますが、「大霊が存在しないという設定の世界とはどのようなものなのか?」ということを想像するのも面白そうなので、後でやってみようと思います。
続きは後日、改めて書きたいと思います。
2024年5月28日火曜日
先週の金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」第6章 自由意思が神の意思になるとき
1 イニシエーション
144ページ1行目、
「人生におけるある経験は、原因と結果から生じるものではなく、魂が自発的に求める結果、生じるものです。私たちは、これをイニシエーション(通過すべき過程)と呼びます。」
最初にここを読んだときは、「個として存在している私に、原因と結果から生じない経験などあるのだろうか?」と疑問を持ちました。
果たして、「種を蒔かずにして、収穫を得ること」があり得るのでしょうか?
ホワイトイーグルとシルバーバーチの教えの中で違いをあげていくとすれば、この『イニシエーション』ということになると思っています。
一見、言葉としてはシルバーバーチの霊訓と矛盾するようですが、私からすれば、この「魂が自発的に求める」ということが原因となって、その結果として、「人生におけるある経験」が生じるのだと思うのです。
このように、この章の最初の部分では、「何故、私たちに痛みと苦しみが生じるのか?」という疑問に対して、カルマの解消以外の要因もあることが伝えられています。
それから、144ページ12行目では、ナザレのイエスの例を出して説明されています。
「父よ、もしあなたの意思に適うなら、この杯を私からどけてください」
杯をどけることは神の意思ではないと悟ったとき、彼は、「私の意思ではなく、あなたの意思を行いください」と言いました。その後、彼は定められた運命に静かに従いました。
たぶんキリスト教徒ではなくても、多くの人は、ナザレのイエスが、自らのカルマの解消のために十字架に磔刑にされたとは考えないと思います。
改めて考えると、この章でのイニシエーションとは、やはり「通過すべき過程」という意味で使われているようです。
「イニシエーション」を辞書などで調べると、元々は宗教的な意味を持つ言葉で、「通過儀礼(人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、重要な節目によって行われる儀礼)」のこととなります。
「儀礼」というのは、社会的・生活的慣習や宗教伝承から生まれた、一定の型(カタ)を有する行為という意味のようで、私が最初に思いついたのは「七五三」でした。
「七五三」は、日本における幼年期の通過儀礼となりますが、「成人式」も日本と世界では違うようですね。
もちろんこの章で語られているイニシエーションとは、七五三などとは違って、私は「試練という名の通過すべき過程」という意味で受け取っています。
それ(イニシエーション)を受けることは、自らの目的に適うことであり、有用なことであり、良いことが待っていることでもあるとされています。
結局、魂が成長していく過程には、大なり小なり、さまざまな試練をくぐり抜けていく必要があるようです。
最後に、参加者の方から、「今はそう思えなくても、今ある辛く苦しい出来事も長期的な目で見るならば、それは自分にとって必要なことであり、最善・最適・最良であることが理解できるようになると思います」という話がありました。
私はその話を聞いて、「そういうのって、とても大事なことですよね」と思いました。
それと同時に、「やっぱり生きるのって大変なことだなぁ」と思いました。
今回は、これで終えたいと思います。
2024年5月24日金曜日
オンライン読書会の報告の続きです。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える 182ペーから185ページ7行目まで
182ページ3行目、
「イエスの教えの肝心かなめは、”愛”です。”おのれを愛するごとく隣人を愛せよ。汝に敵対する者にも優しくすべし”です。」
かつての私と今の私も、イエスの教えの”おのれを愛するごとく隣人を愛せよ。汝に敵対する者にも優しくすべし”を、日常生活の場で実践しようとしましたが、それはとても難しいことであると実感しています。
私の正直な感想は、イエスにはそれが出来たのでしょうけど、私には”汝に敵対する者にも優しくすべし”がほとんど出来ていません。
それに、自分の頭の中ではそれが出来ると判断しても、実際に私が傷つけられた場合、心の中では様々な負の感情が沸き起こります。それはとても嫌で辛いことです。
しかも、敵対するものに形だけなら優しく出来たとしても、その私は自分に嘘をついているような状態なので、都合よく本音と建て前を使い分けているだけなのかもしれません。
182ページ5行目、
「愛とは摂理(神の心)の通りに行うことです。」
「人類の救済にとってこれ以上に必要なものがあるでしょうか。愛は霊性の最高の表現です。大霊から下さるものです。それを私たちがあなた方にお届けしているのです。」
これを読んで、私がまだ幼い時のことを思い出しました。
私の父と母は、生活が大変な時が多かったせいだと思いますが、時々、幸せのためには”お金”が大切だと語っていました。その当時は、私の知る他の家庭でも、”愛”よりも”お金”が重要視されていたように感じます。
それと、その当時の私は、幼いながらも愛に包まれていると感じる家庭を見ると、とても羨ましかったのを覚えています。
視点を変えて、今の話をしたいと思います。
この数か月の間に、私の仕事先でちょっとした人間関係のトラブルが数回あって、私の心がいろいろと傷ついたことがあります。
「まぁ生きていれば、そのような経験はつきものですし、辛く苦しいこともあれば、嬉しいことや楽しいこともそれなりにあるのですから…」と思ってみても(いや、実際にそうなのですが)、やっぱり嫌な経験をするのは嫌なのです。
この人間関係のトラブルとは、自分なりに相手を気遣って対応していても、その時のタイミングの行き違いから、相手を怒らせたり不機嫌にさせてしまったこととなります。
たぶん相手にとっては、ほんのささいな出来事だと思うのですが、私にとっては、「相手を気遣っているはずなのに、どうしてこのような結果になってしまったのだろうか?」と、ショックを受けたのです。
それはそれとして、そのような経験から気づいたことがあります。
みなさんもご承知のように、人それぞれ霊性も違えば性格も違います。
今までの私は、トラブルを解決するために、その原因を追究し、何が問題で何を改善するべきかに視点がおかれていました。
また、今回のような行き違いから生じている人間関係のトラブルでは、自分と相手の行動や動機などを振り返り、双方の何が問題となって引き起こされたのかを考えてきました。
それでも結局、「自分も悪いかもしれないけど、相手も悪いし、おまけに相手の性格が悪いのが原因だ」と結論をだして、そのように思いたい自分がいるのです。
一体、どのように努力して頑張っていけば、イエスのように、隣人を愛し、敵対者に優しくなれるのでしょうかね。
それで、四度目の正直(三度目では気づきませんでした)の経験で、やっとわかったことがあったのです。
「あなた(私)が愛しているのは自分で、相手が愛しているのも自分で、お互いの正義と正義がぶつかり合って、どちらの正義がより正しいのかを判断しようとしているのです。」
「あなた(私)を傷つけた相手は、自分が感じる気持ちが正しいと思っているから、あなた(私)にそのような態度を取っただけで、相手にとっては、それが正義なのです。」
「しかも、あなた(私)が未熟だと感じている相手は、かつてのあなた(私)でもあるのです。何故なら、かつてのあなた(私)は、自分の信じる正義によって人を傷つけ、過去世では殺めてしまったことさえあるのですから。」
「かつてのあなた(私)は、”正義のない所に人の幸せはない”と信じて生きてきました。が、ようやく”愛の無い所に人の幸せはない”ということに気づいたのです。」
「そのように、自分という存在を自分の外側と内側の経験を通して知り、成長していくものなのです。」
「あなた(私)が成長していくように、みな成長していきます。相手を憎むことは、かつてのあなた(私)を憎むことになります。」
「同じように、相手を愛することは、かつての自分を許し、愛することでもあるのです。」
(これは、私が執着や未練をいろいろと引きずっているので、自分が自分に対してかけた言葉なのかもしれません。)
今回はこれで終わりますが、やはり人間をやってみると、ナザレのイエスは凄いと思います。もちろん、シルバーバーチもそうです。私も少しはその方たちに近づけるようになりたいです。
2024年5月20日月曜日
昨日開催のオンライン読書会の報告です。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える 182ペーから185ページ7行目まで
前回、シルバーバーチへのイエスについての質問が途中でしたので、短い範囲でしたが切りが良い所で輪読を終えました。
オンラインの後、以前から約束をしていた二人の知人の方と会って、霊的知識を交えた話をしました。
その時にヒーリングの依頼も受けたので、内容の方は別の機会で紹介できればと思っています。
それでは、今回は終えたいと思います。
2024年5月11日土曜日
今回は、昨日に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告となります。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)十二章 病気とカルマ(宿業)―エドワーズ夫妻を迎えて―の続きから、十三章 質問に答える 203ページまでとなります。
今回の感想で、ハリー・エドワーズ氏の夫人に向けた霊団からの言葉を、シルバーバーチが代弁する形で伝えられた内容が良かったということで、その部分を紹介したいと思います。
197ページ13行目、
「一方が脚光を浴びる立場にあれば他方はその陰にいなければなりません。陰の存在なくしては脚光を浴びる人もいないでしょう。私たちの目から見れば、人のために為された貢献は、黙って人知れず為されたものであろうと大勢の観衆を前にして華々しく為されたものであろうと、その評価にいささかの違いもありません」
これを読まれている方の中にも、黙って人知れず、人のために貢献を為されている方がいることでしょう。嬉しいことに、スピリットたちは、けっしてその貢献を見過ごすようなことはないようです。
他の感想として出されたのが、「シルバーバーチの霊訓は、交霊会に参加された対象(相手)に対して語られているのを考慮すれば、俯瞰(フカン)することも必要だと思う」というものでした。
この場合の俯瞰の意味とは、「シルバーバーチが語る言葉の一字一句に振り回されるのではなく、広い視野を持って全体を把握すること」だと思いました。
私がこのような話を度々持ち出して紹介するのには理由があるのです。
人間って、いろいろと弱い部分があると思っているのですが、地球人として生きている場合は、特に(大霊としてではない)”神”に対しての弱さを感じています。
一つの例をあげると、シルバーバーチの霊訓を学んでいく過程で、一部の内容に違和感を抱いたり、納得がいかなかったりしても、「シルバーバーチは、神界の、しかも神庁に在らせられる高級霊であるのだから、そのように思う自分が未熟なのだ。あるいは、悪いのだ」と感じて、だんだんとネガティブになったり、苦しくなったりする場合があるようなのです。
もしかしたら、その根底には、「神界の高級霊の教えに従わないと救われない」という思いがあるのかもしれません。
つまり、神に近い存在に逆らうのが怖いのは、神という存在を怖れているからでしょうね。
きっと、人間のような人格を持った神を、唯一絶対の神であるという概念がそうさせているのだと思います。
これは、今の霊性の段階では、なかなか解消出来ない概念であると感じています。
ところで実際問題として、シルバーバーチの交霊会に参加されたスピリチュアリストと呼ばれていた人でさえ、肉体の死を迎えた後は、低い境遇の霊の世界で過ごすことになってしまったという話があるので、やはりラベルよりも、自分がどのような種を蒔いてきたのかが重要なのだと思います。
せっかく、神は自由意志(制限があるとしても)を与えてくれているのですし、今は正解だと思っていることであっても、私たちが成長していくことで、より良い他の正解が出てくるかもしれません。
とりあえずまとめてみます。
シルバーバーチの霊訓を聖書のように扱い、しかも教義としてしまうと大きな問題が出てしまいます。
まず、教義とは、教えの主旨のことで、特に宗教上で真理と認めている教えのことです。
私たちが教義を問題視する場合は、一般的に「その教義の内容がどのようなものであるのか?」に目を向けていくと思われます。
しかし、私が問題とするのは、「〇〇の教え(教義)は真理であり絶対的なものである」とすることで、”そこに個々人の自由意志を介入することが出来ない”というところです。
そもそも霊的な真理とは、それぞれ個々の人たちの霊性によって、理解の深まりに違いが生じるものであると認識しています。一方の教義とは、個々人の霊性の違いに関係なく、それぞれの人がその教えの内容に合わせていく必要があります。そういう意味では、教義とは、法則というよりは、法律に近いものだと感じます。
本来、真理とは、私たちの霊的な成長に合わせて授かっていくものなので、それを教義化してしまうと、たとえ私たちが霊的に大きく成長したとしても、かえって私たちの自由を奪い成長の足止めとなってしまう可能性が出てきます。
ですから、シルバーバーチが語る言葉が、話す対象(相手)によって違いが出てくるのも当たり前と言えば、当たり前なのだと思います。
洞察力を持ってシルバーバーチの霊訓を読めば、シルバーバーチの方が対象の霊性と理解力に合わせて話をしているのであって、相手が自分に合わせるように強制していないことが読み取れるはずです。
それと、シルバーバーチの霊訓を学んでいる方ならわかると思いますが、教義と法則は違うものですよね。神とは法則であっても、教義ではないはずです。
けれども、自分たちの信じる教義がまるで法則であるかのように錯覚したときに、その教義が書かれた書物が聖書となり、神となります。
さらに問題なのが、自分が所属する組織の拡大や、そこでの自己の大成こそが神の御心に叶うことだと錯覚し、肝心な他者への奉仕(サービス)がおろそかとなり、しかも組織に忠誠を誓えない者を、愚か者として敵のように扱ってしまうことです。
もしも、シルバーバーチの霊訓を学んでいたとしても、そのような一方通行の教義の押し付けのような学び方であったとするならば、残念ながら多くの人々にとっては、シルバーバーチの霊訓が、その程度のものでしかなかったと思うかもしれません。
それでも私は、方向性が違っていたとしても、目標に向かって一生懸命頑張っている人は、とても偉いと思っています。何故なら、今まで自分が持ち合わせていなかったものを見ることで、霊的成長のための選択肢の幅を広げることが出来るからです。
そのように、それぞれの方向性の違いは私たちの視野を広げ、意識の拡大に役立つと感じております。しかし、それが恐怖や不安を発生させ、個々の自由意志を阻害する方向に傾いている場合には、残念ながら賛同できないと言うことです。
こうして書いていて思ったことは、結局、どのような経験をしてきたとしても、私たちは成長することが出来るのです。だったら何も無駄なことはないのだとすれば、何故に私はこうして書いているのか?と、今さらながら思いました。
以上で終わります。
2024年5月5日日曜日
5月のシルバーバーチ読書会の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(四)一章 絶対不変の摂理」(20ページ4行目から27ページ9行目まで)
今回は、初めて参加する方を交えての読書会となりました。
とても楽しく過ごせた読書会だったと思います。
それでは内容に入りたいと思います。
20ページ4行目、
「人間が地上にあるのは人格を形成するためです。」
そもそも人格とは具体的にはどのようなことを意味しているのでしょうか?
辞書を調べてもさまざまな解釈があるようですので、人によって受け止め方が違っているのかもしれません。
20ページ12行目、
「その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変の物質の世界に神の国があるはずはありません。魂の中に存在するのです。」
これを説いた人というのは、みなさんご承知のように”ナザレのイエス”です。
この地上世界で生きていると、「私たちが幸せに暮らすためには、ある程度のお金やものが必要であり、それは自分の外から得るものであり、心の中から得られるものではない」と考えてもおかしくはないと思います。
さらに、「神の御国は自分の心の中にある。あるいは、魂の中に存在する」と言われても、それは”私たちに対する気休めの言葉だ”と思っている人もいるかもしれませんね。
けれどもきっと、ナザレのイエスがその事を教えてくれていなかったならば 、私たちは、いつまでも神という名の存在の奴隷のままとなっていたことでしょう。
21ページ4行目、
「地上のよろこびは安ピカであり気まぐれです。」
私は初めてこの文章から、「安ピカ(ヤスピカ)」という言葉を知りました。あまり良い意味で使われているのではなく、「安物に金メッキなどをして高価にみせること」らしいです。(「ピカッと安全」という意味ではないようです。)
21ページ15行目、
「しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。」
私はこの前後の文章も含めて読んだとき、「日曜日の夕方にサザエさんを見ると、あぁ、もう休みが終わってしまう。明日から仕事だと思うと、心が安らがない」という気持ちになった時のことを思い出しました。
たぶん、シルバーバーチが伝えたかったことは、それとは違うのだと思います。
23ページ9行目、
「霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。」
ということは、問題がないと「霊性の発達」が出来ないということでしょうか?
どうやら、そうらしいですね。
26ページ4行目、
「人間的な感情を具えた神は、人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。悪魔も人間が勝手に想像したもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも視野の狭い人間による想像の産物です。神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。」
神について、愛を感情の一部だと考えている場合は、理解するのが難しいと思います。感情の一部としての愛は、愛情と呼ばれていて、それは揺れ動くものだと思っています。
そもそも感情とは、「原因と結果の間で揺れ動くもの」であるとすれば、もしも原因と結果を一つとしてとらえることの出来る存在からすれば、それがないということになります。
そして、神は法則であるからと言って、そこに愛がないというのも早合点ではないのかと思うのです。
話を整理すると、人間は何かしらの原因である対象に対して、人それぞれ、さまざまな感情が芽生えてきます。それに対して、神の愛は、原因となる対象がどのようであっても、少しも揺らぐことがないということです。
つまり、「神とは法則です」という言葉は、「(神の)愛とは無限です」ということでもあると思うのです。
きっとシルバーバーチは、そのようなことを伝えたかったのだろうと思われます。
続けて、他の文章からも考えていきたいと思います。
24ページ3行目、
「タネ蒔きと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっとも多くの人に理解していただきたいと思っているものです。」
これは、シルバーバーチがいろいろな所で紹介している”法則”の一つです。別の所で「原因と結果の法則」として紹介しています。
「正直者が馬鹿を見る」という言葉があります。これは、「悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに対して、正直な者や善良な者はかえって損をしたり、ひどい目に遭ったりする」というような意味で使われます。
たぶんこれは日本に限ったことではなく、世の中とはそういうものだと感じている人が多いからこそ、こういう諺(コトワザ)があるのだと思います。
ナザレのイエスによれば、「どんなに頑張っても報われない」と思っている世界とは、神が存在しない世界であり、それは虚構の世界となります。けれども、神が存在する以上、「頑張れば必ず報われる」のが本当の世界であるということになりそうです。
もしもそこに「感情のある神」という設定を入れてしまえば、蒔いたタネが同じだとしても、神の”揺れ動く愛”によって、報われる場合と報われない場合が生じてしまう可能性があります。
「愛情の神」と「愛の神」との違いを理解すれば、「神とは法則です」と言う意味がわかってくると思います。
もしもみなさんの中で、シルバーバーチの言葉によって、神が「法則」という名の機械的で冷たいロボットのように感じてしまうとするならば、たぶん次のような理由があるからでしょう。
「私たちがとても苦しく辛い時に、どんなに神に祈っても、あるいは願ったとしても、神は法則なのだから、それは叶わずに救われることはないのだ」と。
でも、その苦しみをのりこえるために、私たちが必死に努力をしたとしても、神は見て見ぬ振りをしたり、逆に努力をしなくても、気に入ったものだけを救ったりしたとすればどうでしょうか?
さらに、みなさんは、次のように考えることは出来ないでしょうか?
「神は私たちの自由意志を尊重し、私たちが蒔いたタネがどのようなものであっても、必ずそれに相応しい結果を用意してくれている」と。
「しかも、私たちは成長することが出来るし、それに見合った幸せを手に入れることも出来ます。さらに、そのための手助けが何重にも連なっているのだ」と。
見方を変えると、神って、親バカ以上の存在だと思います。私たちが悪いことだと感じていることでさえ止めることはせず、しかも罰としてではなく、それに相応しい結果を用意してくれるのですから。それはつまり、やり直すことが出来るということです。
こういうこと(サザエさんの例や親バカという言葉など)を書くから、私はダメなのかもしれませんね。(そのままのせていますけど、あの世のジョウシからチェックが入るのですよ)
今回は、私なりに「神とは法則です」という意味を説明してみました。
最後に、他の所では、電話のやり取りの時にとても怖い思いをしたり、不快な思いをしたりする場合があるそうですが、足立の場合は、アットホームでマイペースなので、ちっとも怖い場所ではないと思います。でも、カリスマ性とか求めても、それは私にはないので、そういう方には不向きな読書会だと参加者の方から言われています。
今回は以上となります。
2024年5月3日土曜日
4月26日の読書会の予習の報告で、「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」183ページ9行目、
──イエスは本当にはりつけにされたのでしょうか。
「そんなことについて私の意見をご所望ですか。どうでもいいことではないでしょうか。~」
という個所を紹介しました。
「シルバーバーチの霊訓(五)六章 イエスはいま何をしているか」78ページ6行目では、
「ほぼ二千年前にイエスは磔刑(ハリツケ)にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。~」
と述べられています。
やはり質問する人や質問の内容によって、シルバーバーチが語る言葉も違ってくるのだと改めて思いました。
この六章(イエスはいま何をしているか)で、イエスについて語っているので紹介したいと思います。
80ページ10行目、
「今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。」
と、とてもシンプルに語られています。
それから81ページから82ページにかけて、フェスティバル(うれしい催し)のことが書かれていています。82ページ11行目では次のようなことが書かれています。
「その中でも最大の感激はあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽り伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」
シルバーバーチが喜んでいる姿を想像してみたのですが難しいですね。それでも、とても嬉しかったといことは伝わってきました。
ところで、「イエス・キリストの生まれ変わりだ」と主張している人が世界にはたくさんいるそうです。
私が書く内容を鵜呑みにするよりは、いつか私たちが帰る霊の世界のことを思うならば、バランスの欠けたスピリチュアルの危険性も含めて、ご自分の手でいろいろと調べて判断してもらいたいと思います。
ある牧師の話によると、キリスト教から派生した新宗教の中には、何千と「キリストの生まれ変わり」を自称する教祖やリーダーが存在するそうです。外向けには、単なる宗教指導者のように振る舞って、内向けには、「自分こそが聖書に書かれている再臨のキリストだ」と信じさせ、絶対的な服従を敷くグループがあるようです。
そして、「周りが気づいていない中、自分たちだけは既に来られたキリストが誰かを知っている。メシアに正体を明かされている」と思わされ、選民思想にはまってしまう人たちがいるとのことです。
それに関わる事件も、世界中に起こっているようです。
たとえばその一つに、「キリストは中国人女性に転生した」と信じる教義を持つ、中国のプロテスタント系新宗教があります。そこでは、 【全能神たる「女キリスト」は、共産党「サタン」との戦いに勝利する】ということが信じられているようです。
さらに、クリスチャンと呼ばれる人の中には、「私がキリストの生まれ変わりです」とか、「何月何日に世界が終わります」とか、「私たちのグループに入ると救われますが、入らない者は悪魔か反キリストです」とか、そのようなことを言う人が意外と多いそうなのです。
しかも、それぞれの人たちが、「自分の所だけは真実で、他は騙されている」と思っているそうです。
自分がそれをただ信じているだけならば、あまり問題はないのかもしれませんが、それによって他人を巻き込むようになれば、後々まで問題を引きずってしまうことでしょう。
実は私自身がそれと似たような話を信じていた時期があったので、今回、「このようなこともありますよ」ということを紹介しました。
スピリチュアルの世界が好きで、それを拠り所にしている人たちが、狭い視野の情報に偏らず、スピリチュアル以外の場でも広い視野を持てるように願っております。
2024年4月27日土曜日
昨日開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書「カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ」第5章 自由意志 3 作用と反作用
140ページ6行目、
「肉体は魂が生まれる場所であり、エーテル体は物質世界と霊界を結びつけるものです。メンタル体は、個人が生命の法則を理解し、地上での経験を得るためのものです。これらすべての乗り物は、過去の結果によりもたらされます。現在、あなたがたは、魂の中に原子を生み出したり作り出したりしています。それは、未来のあなたがたの乗り物を形作るのに使われます。あなたがたは、それを通して地球あるいは地球の形態を持つ他の惑星に現れます。」
私たちが携えている身体を、ここでは「乗り物」と表現されています。ホワイトイーグル以外にも、身体を乗り物として表現されている存在がいますので、もしかしたら霊的な視野で見ると、身体がそのように見えるのかもしれませんね。
今回の読書会では、ちりりんさんから、ホワイトイーグルとシルバーバーチの霊訓の両方を学んでいくのが良いと思うことを話されました。経験上、どちらか一方に傾倒するよりは、バランス良く学んだ方が良いみたいです。
ここでは詳しい話をすることは控えますが、ちりりんさんがシルバーバーチしか視野に入っていなかった頃は、「自己犠牲」という言葉によって、どんどん自分を追い詰めてしまったそうです。
そのような時にホワイトイーグルの本と出会ったそうですが、その教えを学んでいく内に、今までのような自己犠牲をせずに、自分を大切にして良いのだと思えたのだそうです。
私事で言えば、今から三十年位前の私がまだ二十代で子供が生まれた頃に、労働組合の中にいた”ある活動家の先輩たち”から、「家族を犠牲にしてでも労働者のために尽くすことが正しい生き方である」と強く諭され、私もそれを信じて、その後十年間くらいは仕事を終えてからも、週に2~4日間は、労働組合の会議や活動、あるいは勉強会に費やしていました。
時には休みの日さえも駆り出されることがあって、面と向かって口には出せなかったものの、それが私には嫌で嫌でたまらなかったのです。
本当に、”ある活動家の先輩たち”が言うように、「家族を犠牲にしてでも労働者のために尽くすことが正しい生き方である」のでしょうか?
今の私は、そのように思ってはいません。
さらに、次のようにも言われてきました。「小さな幸せを求めて、大きな幸せをあきらめるのか?」と。
つまり、「人類全体の幸福を取るより、お前は、小さな家庭の幸せを取る人間でしかないのか?」と。
しかも、「自分たちのグループに所属していない労働者は間違っている。他のグループにいる人間は、私たちと違って劣っている。」と、自慢げに語っていたのです。
実際には、グループの中には序列があって上下関係がはっきりしていましたし、女性蔑視も目立ちました。さらに大きな幸せを求めるあまりに、家庭が崩壊してしまった人もいましたし、お子さんが自らの命を絶ってしまわれたこともあったようです。
けれどもそのような方たちに限って、言い方はそれぞれですが、「私たちは、人類のために、そして、正義のために、悪と戦っているのだ」というようなことを真面目に言っていました。
さらに、それを実現するためには、「組織を拡大して強化する必要がある」そして、「知識と実践は、車の両輪であるから、どちらが欠けても上手くいかない」、だから人類の幸福のために、時間を無駄にすることなく、「家族を犠牲にしてでも成し遂げなければならないのだ」と言うのです。
そして、目覚めた労働者は、大義のための自己犠牲が必要なのだと。
つまり、「どれだけ自己犠牲が出来るのかで、人間の偉大さがわかるのだ。」ということらしいのです。
今からすれば嘘みたいな話に聞こえるかもしれませんが、私の親(以上)ぐらいの世代の人たちの中には、そういう人たちが実際にいたのです。
途中でグループに嫌気がさしたり、反発して抜けた人たちは、脱落者の烙印が押され、見下されていました。
そういう状況の中で、「私は霊を見たことがある」とか、「労働組合やグループが違っていても良い人たちはいますよ」とか言っていたので、すぐに目を付けられて、いろいろと大変な目にあってきました。
結局、私はその人たちに反発し、いつしか他の労働組合に所属している先輩に相談するようになりました。
今は、その労働組合に私は所属しているのですが、その先輩が言っていたことは、かつての先輩たちとは違っていました。
「手段と目的を間違ってはダメだよ。労働組合は、私たちの幸せのための手段であり道具なのだから、その道具(組織)で自分たちが苦しむことって、おかしいと思うよ」と。
そして、「自分を大切にして下さい。家族を大切にして下さい。これからの活動は、仲間の意見を尊重しながら考えて行こう。」と言われました。
その先輩のスタイルは、仲間とその家族の幸福を第一に考えて、既存の枠組みはあるものの、お互いに協力して何が出来るのかを探っていくというものでした。
そこでは役員などの肩書があっても、みんな無償でやっているのでお金はもらっていないし、それは全国の委員長であっても同じことで、普段の仕事を続けながら重責を担っています。しかも弱い立場の人たちに寄り添って、「私たちはみんな一緒です」と普段から言っているのですから凄いと思いますし尊敬もしています。
私には正直そこまで出来ませんし、無理です。
話をもとに戻すと、「自己犠牲」のために、家族、あるいは友人などを犠牲にしてしまっては、シルバーバーチが語っている「人の役に立つこと」と矛盾してしまうと思うのです。
だって、家族や友人という身近な他の人の役に立つことさえ出来ない教えって、おかしいと思いませんか?
むしろ、「家族や友人など大切である人たちを犠牲にしてでも、何かを成し遂げたい」という自己をこそ、犠牲にした方が良いと感じるのです。
だったら、家族や友人を大切にしながら、それをやり遂げられるように全力を尽くした方が良いと思っています。
家族や友人のために、見返りを求めずに、思いやりを持って優しい言葉をかけてみるのだって、良いことだと思います。
もしもシルバーバーチの霊訓が、私たちの魂の自由や幸福を奪うものであると私が感じるならば、手段であるそれらのものを捨ててしまうことでしょう。
そもそも人々の幸せを願うために、愛の他に何が必要なのでしょうか?
私が抱いている自己犠牲は、かつての先輩たちのものとは違っていると思いますし、それで私は良いと思っています。
以上で終わりたいと思います。
2024年4月26日金曜日
今回は、読書会の予習の内容をのせたいと思います。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」
182ページ1行目、
──イエスが述べた正確な言葉を自動書記か何かで入手することは可能でしょうか。
「何とも申せません。問題は当時のイエスの言葉を記録した人物が一人もいなかったことです。ですから、それを伝えるには記憶に頼らねばならないわけです。」
シルバーバーチがこのように述べるのは、私にとっては予想外のことでした。何故ならシルバーバーチ自らが、霊の世界でイエスと実際に面識していることを語っていたので、それくらいは出来て当然だと思っていたからでした。
そういえば、シルバーバーチの霊訓では霊界の図書館や霊界の記録簿については語られていましたが、アカシックレコードについては、その真偽も含めて語られていないように感じます。
もしかしたら霊界には、当時のイエスの言葉を正確に記録したものではなく、当時のイエスと交流のある人たちの記憶(その人の目や耳などを通したもの)をもとにした記録が残されているのかもしれません。
もしもそうであるとすれば、人によって記憶に違いが生じている可能性はあると思われますので、霊界でのイエスの記録簿も一つではないのかもしれません。
以上のことは、霊界通信による違いが生じている理由を考えてみた、私の勝手な推測となります。
183ページ9行目、
──イエスは本当にはりつけにされたのでしょうか。
「そんなことについて私の意見をご所望ですか。どうでもいいことではないでしょうか。大切なのはイエスが何を説いたかです。はりつけにされた時にどういうことが起きたかは、いくら議論してもラチが明かないでしょう。私にもその立証はできません。ですから、そのことについてはお答えしません。無意味に人を断罪するのは私の趣味ではないからです。それは私の使命ではありません。」
184ページ1行目、
(訳者注──イエスの処刑についてはいろんな説がある。一般には聖書の通りにその場で死亡して何日か後に蘇ったことになっているが、実は処刑されたのはイキリスという名の弟だったとか、完全に死んだと思って埋葬したが本当は死んでいなくて、生き返って国外へ逃げたとかの説があり、それぞれにもっともらしい論拠を揃えている。国外へ逃亡したとする説にも、ローマへ行ったという説と日本へ来たという説、そして最近ではインドへ行ったという説があり、いずれの場合もかなりの高齢で他界したことになっている。)
このシルバーバーチの霊訓(十)の第1刷が発行されたのは、平成16年8月20日です。今から20年前の西暦2004年(初版は36年前の1988年)となります。この質問が出されたのは、それより前であると考えられるため、イエスの磔刑については、ずいぶん昔からいろいろな説があったように見受けられます。
さらに現在も、いろいろな人たちからいろいろな説が語られています。 (それらの説はYouTubeなどでも見ることができます。)
そられの説の一部をこれから紹介したいと思いますが、イエスの生涯とともに、織田信長についても語られているので合わせて要点だけを紹介したいと思います。
まず一つ目の説として、イエスという名は、イサヤ、あるいはイサハヤという名で呼ばれていて、磔刑については弟が身代わりとなり、本人は日本で亡くなったとのことです。その方はその場面を、霊的な体験によって実際に見てきたと主張されています。
それから、織田信長と明智光秀はクリスチャンで、本能寺の変では亡くなっておらず、二人で共謀してバチカンに行ったと主張されています。
次の説は、イエスはただの人間のチャネラーであり、ある真実に気づいた人だったということらしいです。
それと、本能寺の変で織田信長は亡くなっておらず、秀吉と家康と協力して日本を守るために、自分は裏方にまわって指示していたということらしいです。
三つ目の説は、イエス・キリストとは、イメージキャラクターであり、もとになったヨシュアは、マリアとヨセフの間に生まれた実の子供であると主張しています。
磔刑については、杭を打たれて気絶したものの生きながらえて国外に脱出し、南アジア(インドとバングラデシュ)まで逃れて、名前と容姿を変え、布教活動をしながら88歳で亡くなったということです。
織田信長については、バテレン人と国外に脱出して長生きしたそうです。明智光秀については、謀反の誤報に翻弄されて罪を着せられたが、徳川家康に拾われて、天海として生きたそうです。
この他にも、イエスはマグダラのマリアと結婚し、子供がたくさんいた説とか、織田信長の霊と霊能力を使って直接話したから間違いがないとか、イエスの生まれ変わりだとかイエスの弟子であるとかという話まで、人の数だけいろいろな説が出てくるような感じがしております。
しかもYouTubeやブログなどで、そのような説を語っている人たちは、(信じるかどうかは別として)自分の持つ霊能力などによって得た”真実”を伝えているということです。
けれども、すでに数十年前に語られてきたようなそれぞれの説を、改めて今現在それぞれ別の方が繰り返し語っている状況は、どこか異様な感じがします。
結局、昔も今も、自分たちが主張している”それぞれの説”を、それぞれの方が真実であるということで紹介されているのが現状のようです。
何となく私には、(各個人に能力の差などがあることは言うまでもありませんが)それぞれが交信しているグループが用意した「ホログラム」を見て、それが真実であると認識してしまっているように感じています。
これも何となくですが、霊視というものが、自分の能力で視ているようで、実は視せられている場合もあるのではないのか?と感じております。
もしもそうである場合を考えると、ある霊的なグループがあったとして、そのグループの利益になるように霊能者や霊媒の思考に働きかけて誘導したり、自分たちで用意したホログラムを見せて、それを真実だと思い込ませたりすることもあり得ることだと思います。
それがたとえ、ポジティブであろうがネガティブであろうが…。
それらの説は、どれが真実なのかはともかくとして、私には”争いの種”にしか思えないのです。その一方で、”本当はこうだったらいいな~”という願いを持つことは、けっして悪いことではないと思いますし、本人の自由だと思っています。
以上で、予習にならない予習を終えたいと思います。
2024年4月22日月曜日
オンライン読書会の報告の続きです。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」
シルバーバーチに以下のような質問がされました。
177ページ5行目、
「(旧約聖書の天地創造の話を持ち出して、)ある人たちはその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。」
177ページ11行目、
「その説がたくさんあるのです。どれが事実なのか分からないのです。」
それに対して、シルバーバーチは次のように答えています。
178ページ1行目、
「生意気を言うようですが、私はそうした”説”を超えたものを手にしております。この問題に関しては少しばかり知識があるのです。地球は無窮の過去から存在し続けております。始まりもなく終わりもありません。バイブルにもイエスが言ったとされる名文句があります――”アブラハムが生まれる前から私は存在している”と。
霊は無窮の過去から存在しております。ある時ひょんなことから創造されたのではありません。それが地球に宿り、数えきれないほどの年数をけみして、やっと生命として顕現しはじめたのです。生命は霊であり、霊は生命です。永遠の過去から無限の可能性を秘めているのです。
その生命の誕生に大気圏外からの存在が参加した事実はありません。内在していた生命力が無限の知性によって考案された進化の法則にしたがって顕現し、発達し、進化してきたのです。」
シルバーバーチによると、天地創造の活動に、宇宙人の参加はなかったということになるようです。しかも、自信を持って答えられているように感じます。
訳者として、近藤千雄氏が”(天地創造について)霊界からの働きかけは、大々的に行われたものと想像される。”と指摘されていますが、私もそれは大々的にあったと思います。
ここからは私の意見となりますが、私としては、みなさんが『ベールの彼方の生活』を一度は読んでみても損はないと思っています。
また、そのようなスピリットとの通信以外にも他の惑星の存在との通信による本がたくさんあるので、これまで私も日本語訳されている本をいろいろ取り寄せて読んできました。
感想としては、質問者の言う通りに本当にさまざまな説があって、どの説もそれなりに正しいように感じられます。
ただ、私が感じたことは、創造活動に宇宙人が参加したという説が、地球創造のために宇宙人が参加したという意味だとすれば、シルバーバーチが語るように、その説は間違っていると思っています。
けれども質問者が、「ある時期に地球上の生物に宇宙人が関与し、遺伝子組み換えなどをしたことがあったのか?」という意味で質問されたのだとすれば、それはあり得るかもしれません。
しかしそれだと、”創造活動”とは呼べません。創造という言葉の意味は、これまでになかったもの(生命)を新しくつくりだすことですから、”すでに創造されているものに何らかの方法で関与すること”は、天地創造活動への参加であるとは言えないと思います。
今回、私がとても感心したことは、シルバーバーチが言葉の意味を深く理解されていて、”記録に残ることまで考慮されて答えている”ように感じたことです。
179ページ7行目、
「最近ではダーウィンの進化論がいろいろと批判を浴びております。ダーウィンはいろんな事実を見落としているようです。」
シルバーバーチが寛容であるのは前から感じていましたが、以下の解答を読んで改めて感じました。
「いかなる発達段階にあっても全知識を手にすることができない以上、見落とされる事実があるのは仕方のないことです。完全のみが全知識を含むことになるのですが、その完全性は地上はおろか霊界においても誰一人として達成したものはいないのです。」
最後に、ナザレのイエスがシルバーバーチ以上に寛容であるとすれば、それはきっと、その霊性の高さとともに、人間のことを好き過ぎるからなのかもしれませんね。
だから私たちを見捨てることをしない。
もしそうであれば、それだけでも私は普通に尊敬してしまいます。
以上で終わります。
2024年4月21日日曜日
4月のオンライン読書会の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える」176ページ2行目から181ページまで
まず、今回の読書会を進めるにあたって疑問に思ったことは、改めて「スピリチュアリズム」とは何であろうか?と言うことでした。
何故なら、スピリチュアリズムとは、〇〇であるとか、スピリチュアリストとは、〇〇であるなど、シルバーバーチがそのような定義をして語ってこなかったことと、
シルバーバーチにとっては用語がそれほど重要ではなく、”大自然の摂理の働きの一部”のことをスピリチュアリズムと語られていたように感じていたからです。
180ページ4行目では、
「シルバーバーチがイエスの偉大さを述べ、地上において開始した地球浄化の大事業を死後もずっと続けており、シルバーバーチ自身もイエスの指揮のもとで働いていることを述べると」とあります。
この文章を用いて、これがスピリチュアリズムであると伝えている方もおられるようです。が、それは、受け取る側の解釈によって、そう思える人がいる一方で、そう思えない人もいるとすれば、そのような受け取る側によって変わってしまう曖昧なものが、”スピリチュアリズム”であるのだろうか?と、ますます私は疑問に思ってしまったのです。
たぶん、私があまり理解出来ないだけなのだと思います。
けれどもその一方で、軽く目を閉じ、心の静寂を保った状態で自分の内部に聞いてみると、言葉にできないほどの量の”思いの塊”として答えが返ってきました。
結局、「地上において開始した地球浄化の大事業」という言葉を用いるのは、とても簡潔にまとめられて良いということで、私もそれに同意しました。
それと、みなさんの霊的目覚めと霊性進化のために貢献することや霊的真理に沿った生き方をしていくことでもあるように感じています。
つまり、スピリチュアリズムとは、私たちが一歩でも大霊へと近づくための神の計画の一部である。すなわち、そのように理解することで、「大自然の摂理の働きの一部(神の計画の一部)がスピリチュアリズムである」と、私はこれを書きながら感じております。
「あなたは、そんなことも知らないで読書会を開催していたのですか?」と指摘されれば、「そうですね」と答えるしかありません。
もちろん言葉や知識としては私も知っていましたが、このように、スピリチュアリズムについて自分の内部に問い合わせたのは初めてのことでした。
世間では、この「スピリチュアリズム」や「シルバーバーチの霊訓」を、霊能力によってお金を稼ぐための「免罪符」として紹介している人も見受けられます。(驚くことに、シルバーバーチの霊訓を紹介している人であっても、内容にもよりますが、一度に数十万円から百万円以上を依頼者に要求している場合があるのです。もしも私が協力する側のスピリットだとすれば、すぐに手を引くことでしょう。)
もちろん、とても真摯に、スピリチュアリズムやシルバーバーチのことを紹介されている人も見受けられます。
また、霊能者と言われる人たちもさまざまのようで、その人たちの言うことが全部正しいのかと言えば、私はそうではないと感じております。それは私が紹介している(霊能者ではないのですが)アイさんの霊的体験についても言えることです。
さらに、次に紹介する質問を見れば、いつの時代であっても、いろいろなデマも含めて、とても信じられないような話が伝えられてきたように感じています。
ただ、私にとってはそれが面白いのです。(たぶん、ひねくれているからだと思います。)
177ページ5行目、
「(旧約聖書の天地創造の話を持ち出して、)ある人たちはその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。」
今回は時間の都合で、この続きは次回に書きたいと思います。
2024年4月14日日曜日
今回は、先週の金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告となります。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(二)十二章 病気とカルマ(宿業)―エドワーズ夫妻を迎えて―となります。
今回は、読書会の終わりの方でアイさんが語られたことを、先に紹介したいと思います。
それは、地上に生まれる前に霊の世界で計画した人生の計画書(ブループリント)のお話です。
何故、私が先にブループリントのことを紹介しようと思ったのか?と言うと、読書会を通じて学んだことが、昨日さっそく役に立ったからです。
アイさんの話によると、地上に生まれる前の人生の計画書(ブループリント)を作成するにあたって、自分自身の希望で(作成する時に、あまり無理をしないようにアドバイスをされていた方もいたようですが)、いろいろな課題をこれでもかというほどテンコ盛りにしたことを思い出したようです。そのことは、ガイドなどの協力があって思い出せたようです。
アイさんのように、ブループリントに自身への計画(課題)を詰められるだけ詰めようとする人もいれば、比較的に穏やかな計画設定にする人もいるようですので、それこそ人それぞれのようです。
194ページ12行目、(カルマ的負債についての質問に対して)
「それが当人に賦課された税金であり、自分で綴っている物語(ストーリ)であり、その筋書きは他の何ものによっても書き換えることはできないということです。」
それから、ブループリントのこともそうですが、ここでカルマの方に視点を移してみても、やはり”自分でつづっている物語である”ということのようです。
シルバーバーチの霊訓で語られているように、全てが原因と結果から成り立っているのですから、私たちは、誰かの何かの”操り人形ではない”ということを改めて認識しました。
(余談ですが、もしも自分で蒔いてきた種の責任を(無意識の内にも)取りたくないという気持ちが強ければ、ある人は、神や世界、地球人類、さらに宇宙人や悪魔や悪霊など、自分以外のせいにすることで自分を正当化し、責任から逃れようとするかもしれません。さらには、偉大な存在である他者(神や天使や聖人など)に依存することで、原因と結果の法則の”結果”を変えようとするかもしれません。そうなると無意識的にも、結果を出すために自分が依存するのにふさわしい存在を選り好みすることまでするでしょう。つまり、自分が望む結果を得たいがために、その原因となるものとして、自分の外にある何か偉大な存在を求めるわけです。「原因と結果の法則」を、人によっては、このように理解している場合があることを知ってもらいたいと思います。)
アイさんにとって、今までの地上人生はとても苦しく困難の続きだったそうですが、ある大きな苦しみをのりこえた後、ブループリントに自分が課題をテンコ盛りにしたことを理解してからは、幸せな気持ちで日々を過ごせるようになったそうです。
それと、昨日の役に立ったことについては、ここでは具体的に言えないのですが、ある方から今後の仕事のことと人間関係によって食事も喉が通らない状態であるとの相談を受けていました。
特にそのことについて読書会では話していませんでしたが、翌日となる昨日に会って話し合いました。
これは当然のことですが、その方がシルバーバーチの霊訓をどんなに読んで学んだからと言って、それだけで問題が解決するわけではありませんから、問題解決のための行動が必要になってきます。
それでもシルバーバーチの霊訓を通じて、解決のためのヒントが得られることも確かだと感じております。特に読書会で取り上げて話されたことが、日常の問題解決に役に立ったことが何度もあるのですから、驚きと同時に感謝をしています。
それで相談者の方に、アイさんが話されたブループリントのことや魂の成長などについて伝えたところ、自分が今抱えている問題に巻き込まれて感情的になり、客観的に見ることが出来ていなかったのを自覚されたようです。
そして話を終える時には、笑顔で「私の魂は、この地上でいろいろなことをたくさんやりたいと思っているようです。だから今、いろいろな事が起こっているのだと思えるようになりました。」と話されていました。
その方の問題解決は、これからの実践しだいとなりますが、私が失ってしまった大切なものを、その方は持っているように感じました。
振り返ってみると、私は相談を受けている側であったのですが、同時に、相談をしている側でもあったのだと感じています。
「私は魂が望んでいることを、その方のように私は素直に受け入れているのだろうか?」
このことについては自分への課題として残し、以上で終えたいと思います。
2024年4月8日月曜日
昨日開催の「シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書「シルバーバーチの霊訓(四)一章 絶対不変の摂理」(20ページ3行目まで)
この一章は、「宇宙の大霊すなわち神は無限の存在です。そしてあなた方もその大霊の一分子です。」という文章からはじまります。
私たちが神と呼んでいる存在を、人によっては、地上での親と子の関係に当てはめて、”人格を持っている神(人格神)”をイメージしているかもしれません。
きっと、そのようなイメージや概念を強く持っている人には、”私たちは、神の一分子である”という考えには賛同出来ないかもしれません。
ちなみにシルバーバーチが”一分子”という言葉を使用したのは、じっさいに、私たちが大霊の一部分を形成しているからでしょう。
つまり、私たちは神の一部分を形成している”神の一部”ということですから、私たちも無限の存在であると言えます。
さらにシルバーバーチが”神の一分子です”という言葉ではなく、”大霊の一分子です”という言葉を選んだのは、きっと多くの人が抱いている神の概念そのものが、宇宙の大霊とかけ離れているからだと思います。
ただ、ここで注意しなければならないのは、人間と言う存在を、霊的な存在として見ることが出来ずに、肉体中心に焦点を当てて考えている人にとっては、シルバーバーチの教えを理解するのはとても難しいと思っています。
16ページ5行目、
「人間は同胞のために自分を役立てることによって、神に仕えることになります。その関係を維持しているかぎりその人は神のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。」
そういえば、今までのシルバーバーチの教えを振り返ってみると、シルバーバーチが「スピリチュアリズムを学んでいる人は救われる」とは言っていないし、「スピリチュアリズムを学んでいない人は救われない」とも言っていないように感じています。
シルバーバーチが、私たちの自由意志をコントロールして、何かしらの見返りを求めるようなことはありませんでしたし、もっとも神に対しても、見返り(として霊格が上がるなど)を求めるようなことはありませんでしたね。
一方、自分の霊性を高めるために、「あれをしています。これをしています。」と、自分を高めるために、日々、努力をされている方もおられることでしょう。
そのような自分への努力も大切だと思いますが、やはり私も、”同胞のために自分を役立てること”が一番大切なことであると思っています。
しかし実践となると、これがとても難しいものだと感じています。
日々、他人と接していると、本当にちょっとしたことで、自分の中にネガティブな(何かしら気に食わない)感情が芽生えてきます。
自分がそのような感情を抱えたままでは、いくら同胞のために自分を役立てることが大切だと思っていても、それを実践することがなかなか出来ません。
それに最近、私は知らず知らずの内に、”人に対して選り好みをしている”ということに気づいたところです。(自分ではそうしないように気をつけていたのですが、自分にとって都合が良いか悪いかで判断してしまいます)
そこで私は、”何とか形だけでも、サービスの実践をしたい”と思っているので、もしも他人に対してネガティブな感情が芽生えたときには、胸の中で「(この方の)霊性の向上と幸せを願います」あるいは、「魂の自由と幸福を」と祈って、気持ちを切り替えるようにしています。
そうする理由は、”霊性の高い人は寛容性に溢れている”ということを聞いているからです。それと、”相手のことを少しでも理解していこう”という気持ちも大切だと感じています。
今回の報告では、1ページどころか、わずか数行の文章の紹介で終わってしまいました。
私がこの続きを書きたいと思えたときは、いつか書こうと思っています。
それでは、これで終えたいと思います。
2024年3月23日土曜日
昨日開催の北神戸ぷちサークル主催「ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書は、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第5章 自由意思2 一定範囲内での自由 となります。
131ページ始め
「以上のように、人類は、ある一定の自由を持っています。しかし、その自由は小さな範囲内でのみ働きます。」
前回の「1 そこに選択権はあるか?」のおさらいをすると、”人間が自らの主人ではなく不変の法則に支配されている”ということ。それから、”神の計画”があり、”因果の法則”を理解する必要があることが書かれていました。
シルバーバーチの霊訓では、自由意志がある一定の範囲内を超えられないことと、その範囲は霊的な成長度合いによって変わってくることが語られています。
一方、ホワイトイーグルの方では、シルバーバーチの霊訓と内容はかぶるものの、それとは違った視点で自由意志について語られています。
131ページ10行目、
「あなたがたが、ときどき悪意があると思う惑星は、ある一定の制約や限界を魂に与えます。」
「それでもやはり、惑星たちの目的は善であり、個人の魂(あるいは国、さらに世界全体でさえも)が学ぶべき教訓を学べるようにしています。」
最初、私の独学だけでは、この内容を理解することが出来ませんでした。
”悪意がある惑星って、どういう意味だろうか?”と思って、いろいろと考えるうちに、”人間に悪意を向ける惑星の話はどこかにあるのだろうか?”と探してみましたが、結局わかりませんでした。
読書会に参加して、いろいろ話しを聞いてみてわかったことは、”ホロスコープ(星の配置を表した天体図)を学んでいる人なら、その部分はすぐに理解出来るはずです”ということでした。
私の理解が及ぶ範囲で言うと、”星の配置によって、私たちに良い影響を与えたり、悪い影響を与えたりすること。また、一つ一つの星(天体)を見てもそれぞれ意味があること”のようです。
そのような知識を持っている人にとっては、”ときどき悪意があると思う惑星”という言葉を受け入れることが出来るそうです。
このように、ホワイトイーグルの数々の教えを理解するためには、”ホワイトイーグルがどのような視点から、私たちに語りかけているのか?”を見極める必要が出てくる場合もあるのだと思いました。
おそらく、シルバーバーチの霊訓を学ばれている方にとっては、ホワイトイーグルの言葉に違和感を持つかもしれません。
ですがそれは、”霊としての私たち”という視点から見た場合と”肉体と精神を携えている私たち”という視点から見た場合では、たとえ同じことを伝えたとしても、伝える言葉そのものは違ってくるのだと思っています。
今回の読書会では、私たちは霊であるけれども、私たちの肉体にはそれを支配する法則があって、その時々でホワイトイーグルが視点を変えて語っていることを理解するならば、もっと深く内容を理解出来るだろうと思いました。
最後に、執着を手放す努力をされている方の話を聞いて、その実践方法を教えてもらいました。
その方の話によると、朝は瞑想の形で実践されていて、日常生活の中であっても怠らないように努力されているそうです。それと、その時のイメージがとても大切なようでした。
同じようには出来ないかもしれませんが、その方のように”執着を手放す努力をする”という姿勢を少しでも持てるようになりたいと思いました。
ついつい私は、仕事を含めて、これから先のことをネガティブに考えてしまうのですが、これから先の自分を取り巻く(かもしれない)状況のことが気になってしまって、自分を変えることには思いもよらずに、ただただ臆病になってしまうことがあります。
ですから私は、これから先が、人も含めて自分の周りが良くなることを願うばかりで、”自分が成長することでのりこえていく”という思いにはなれませんでした。
そのように思う時、”私はつくづく利己的だな~”と、自分で感じます。
読書会で(それが少人数のオンライン読書会の場で、しかも私はその話を聞いているだけでしたが)、自分を成長させようと頑張っている人の姿を見ると、やはり私も影響されるのでしょうね。
まず”自分が成長しよう”とする生き方って、大切なことだと思いました。
今回の報告は以上となります。
参加者のみなさん、お疲れ様でした。
2024年3月18日月曜日
昨日開催したシルバーバーチ読書会の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)十四章 シルバーバーチの祈り」221ページ6行目からとなります。
今回の読書会は、予定していたよりも少ない参加人数でした。最初は多少残念な気持ちもありましたが、人数があまり多くない方が、お互いにより深い話が出来るという利点があることに気が付きました。
もちろんそれとは別に、新しい参加者が増えて欲しいという気持ちは、私もそうですが参加者のみなさんも持っています。
そういえば、読書会を始めた当初は、読書会の人数が多ければ多いほど良いと思っていました。でもそれは、私の中に存在しているエゴであり、読書会の人数が多ければ多いほど、私自身の価値が高まるだろうという錯覚をしていたからだと感じています。
ここで改めて言う必要はないかもしれませんが、足立シルバーバーチ読書会では、課題本(使用図書)として「シルバーバーチの霊訓」を扱っています。そして、その月に扱う課題(章)を読書会の場で輪読し、みなさんと感想や意見を述べ合う形式を取っています。
これは「対話型の読書会」と呼ばれるもので、特に私の場合は、コミュニケーションを大切にしています。
この他の読書会のやり方としては、「自由方式」と呼ばれるものがあります。この方法は、参加者のみなさんが”自分のおすすめしたい本を持ち寄って紹介する形式”となります。
足立シルバーバーチ読書会では、読書会の後半部分でこの「自由方式」の一部を取り入れています。それというのも、スピリチュアリズム関連の本は、シルバーバーチの霊訓以外にもたくさんありますし、みなさんいろいろな本を読まれてきているという理由があります。
出来ることならこれを読まれている方も、それを読書会という場でみなさんと共有していく楽しさを知ってもらえたら嬉しいと思っています。たとえそれが、ここの読書会でなくても良いのです。
ということで前置きが長くなりましたが、そろそろここで内容の方に行きたいと思います。
221ページ6行目では、「モーゼの十戒」について質問されています。
それに対してシルバーバーチは、「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。」と答えています。
モーゼの十戒(モーセのじっかい)は、それぞれの宗派などで違いは見られますが、「あなたはわたしのほかに神があってはならない」に始まり、「偶像を作ってはならない」「神の名をみだりに唱えてはならない」「安息日をまもること」「父母を敬うこと」「殺人をしてはいけないこと」「姦淫してはいけないこと」「盗んではいけないこと」「隣人について偽証してはいけないこと」「隣人の財産を欲しがらないこと」という内容となっています。
現在はシルバーバーチの言葉にあるように、モーセの十戒が時代遅れであると言える程度には、地球人類の霊性が向上してきたように感じています。
さらに今回は、「”別の戒め”が必要である」ということをシルバーバーチが語っていることに注目しました。
222ページ2行目、
「もっとも私には”十戒”ならぬ”一戒”しか持ち合わせません。”お互いがお互いのために尽くし合うべし”——これだけです。」
シルバーバーチによると、この”一戒”しか持ち合わせていないということですが、この”一戒”が遵守されている世界とは、誰もがみな利他的で、愛に溢れ、平和で暖かいイメージが湧いてきます。
ここで、それぞれの魂が”自由”と”幸福”を求めていることを前提として、私たちがその”一戒”を遵守するために必要なことを考えてみたいと思います。
まず思ったことは、各自の霊性に差がありすぎると難しいと思いました。たとえば、一方は相手のために尽くしたとしても、もう一方は相手に尽くすよりも、もっと尽くされたいと思っているかもしれません。
私もそうなのですが、自分の中に”他人よりも楽をしたい”とか、”他人よりも得をしたい”という欲求がある限り、”一戒”の実践は難しいだろうと感じています。
何よりも相手に尽くすためには、自分が利他的である必要があります。そのためには、他者に対する愛が必要だと思っています。それは隣人愛とか思いやりと呼ばれるものです。
その愛を持つためには、エゴから脱却し、霊的に成長していく必要があるのだと思います。
そして、霊的に成長するためには、この地上世界でさまざまな経験をしていく必要があるでしょう。
結局、この地上世界で経験を重ねていくことで、私たちはより深く愛について学び、それによって霊的に成長していくことで、それぞれの魂の自由と幸福のために尽くし合うことが出来るのだと思います。
シルバーバーチの”一戒”をみんなで遵守するのは、言葉では簡単なようですが、とても難しいことだと思っています。
参考までに、イエスが山上の説教で語られたとされる”黄金律”と呼ばれるものがあります。
それは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というものです。
きっとイエスの時代では、自分だけでも人の役に立つことをしようとする視点だったのが、シルバーバーチが語っている時代では、自分だけではなく相手のことも含めた視点となっています。
きっとこの先は、それらを実践し、さらに広い視点を持てるような人たちが増えていくことでしょう。
そう私は願っております。
最後に、私だって、本当は辛い経験はしたくないですし、苦しみの経験が必要なことを分かっていてもやはり嫌なものです。
ですが、これまで悟ったと言われている人たちの話をいろいろと聞いてみたのですが、やっぱりそういう人たちであっても地上世界で生きていくのは辛いのだそうです。決して楽ではないらしいのです。
そのような話を聞いた後は、「悟っていると言われている人たちでさえ、そう感じているのなら、私が辛いと思うことは、ごく正当なことだ」と思えてきたわけです。
それで「どうせなら前向きで生きてみようかな~」と、最近少しだけ思えるようになりました。
ちなみにスピリットたちからは、どのような世界であっても、常に私が平常心でいられるだけの成長が期待されているようです。
(そのうちね)
今回は、以上となります。
2024年3月10日日曜日
本日開催のオンライン読書会の報告です。
使用図書は、シルバーバーチの霊訓(十)十章 質問に答える(176ページ1行目まで)となります。
この章の始めは、スピリチュアリストの在り方について質問されているようで、スピリチュアリズムを信じるようになっても、それまでの宗教を捨てていない人への批判の気持ちが込められているように感じられます。
174ページ1行目、
「私がこれまでに会った人の中には、自分はスピリチュアリストであると言いながら相変わらず何かの既成宗教に属している人がいます。スピリチュアリズムを信じるようになったら、それまでの宗教は捨てるべきではないでしょうか。」
その質問に対して、シルバーバーチは次のように答えています。
「私はそうした名称(ラベル)には煩わされません(煩う=”わずらう”とは、思い悩んだり、あれこれと心を痛めること)。実はこの私自身が果たしてスピリチュアリストなのかどうか定かではないのです。スピリチュアリストであるとの認証を頂いたわけではないからです。ご自分のことをどうお呼びになるのかは問題ではありません。大切なのは毎日をどう生きるかです。」
私が感じたことは、名称に強くこだわる人は、承認欲求が他の人よりも強いのではないかと思われます。(承認欲求とは、周囲から認められたい、自分を価値ある存在として認めたいという願望です)
きっと質問者の方にとって、”スピリチュアリスト”という名称(ラベル)は、それだけ特別で価値のあるものだと思われます。
でも、私からすれば、それは地上世界の人に言うから誇らしげに感じるのであって、そもそも大霊や霊界のスピリットに対して、「私はスピリチュアリストです」とわざわざ自分に名称(ラベル)をつけて向き合うようなことをするのでしょうか?
地上世界での地位や名誉が霊の世界では役に立たないように、名称(ラベル)も同じように役に立たないと思うのです。
中にはそう思われない方もいることでしょうが、シルバーバーチは、名称(ラベル)よりも「大切なのは毎日をどう生きるかです。」と語っています。
この”名称(ラベル)”については、それが「スピリチュアリスト」という言葉に限らずに、地上世界では何かと自分の立ち位置を上に見せるために、「私は、〇〇〇なのです」と、自分の名称(ラベル)を伝え、それを利用する人も見かけられます。(学歴とか年収とか血筋とか、そういう場合もありますよね。)
続けてシルバーバーチは、次のように語っています。
174ページ8行目、
「いったい宗教とは何なのでしょうか。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間のこしらえた教義を受け入れることでしょうか。」
人によっては、教会や礼拝堂や寺院へ決められた日時に通うことや、あるいは、何かしらの儀式や礼拝を欠かさないことが霊性の高さを証明するものだと思われているかもしれません。
しかし、シルバーバーチの言葉からは、そうではないと読み取れると思います。また、人間のこしらえた教義には価値がないかのようにも受け取れます。
それは、聖書に対する批判が込められていると思われます。が、シルバーバーチの霊訓に対しても、聖書の時と同じようなことが起こっているように感じています。(もっともこれは、自分の好きなように書いて発信している私が言えることではないでしょうね。)
174ページ12行目では、「要するに宗教とは人のためになる行いをすることです。」と、シルバーバーチは語っています。
”そもそも宗教とは何なのでしょうか?”
実は宗教と言うものを、私はあまり理解していないのです。何故なら、今まで私の周りには、”宗教について明確な定義を持っている人が見当たらなかった”ということがあると思います。
さらに、”神や仏などを信じることやある宗教を信じて、その教えをよりどころにすること”は、信仰と呼ばれるものであって、信仰心を持つことが宗教であるとは言えないようです。
そういうことなので、今さらなのですが宗教という意味を調べてみました。(本当に、今さらですね)
さっそく調べてみたのですが、宗教とは精神文化の一つで、さらに精神文化の中核をなすものであるそうです。そもそも精神文化とは、人間の精神的な働きによって生まれる文化の総称であり、宗教の他に、哲学、道徳、思想、文学、芸術、法律などが含まれるようです。
(こうして知識を提供してくれる方々に、私はとても感謝しています。今まではそのことに気づきさえしなかったです)
もしも私たちが、”人間にとって宗教とは、精神文化の中心である”と位置づけるならば、シルバーバーチの「要するに宗教とは人のためになる行いをすることです。」という言葉の意味も少しは理解できるのではないのか?と思うのです。しかもそれは、私たちの生死の問題に関わっているからでもあります。
つまり、「私たちの精神文化の中心となるものは、”人のためになる行いをすること”です」ということになります。
これなら、霊の世界でも通用する宗教だと言えますね。
(ちなみに、これらのことを書き進めるだけでも、目に見えない方たちや、知識を提供されている地上の方たちの協力があってのことですから、何か自分でも勉強になって面白く感じています。)
と言うことは、シルバーバーチは宗教と信仰との意味を、きちんと区別された上で語られていたようです。
本当に申し訳なく思っているのですが、今さらですけどシルバーバーチって、とても凄い方なのですね。
175ページ12行目、
「我慢してあげるのです。手助けをしてあげるのです。議論し合ってはいけません。議論からは何も生まれません。」
そして、「時が立てば、あなたの場合もそうであったように、きっと機が熟します。」とあります。
シルバーバーチがそう言うのですから、ここは素直に従おうと思っています。
きっと、シルバーバーチのこのような言葉を大切にされている方が多いから、私が今まで読書会を続けていくことが出来たのだと思います。
と言うことで感謝をしつつ報告を終えたいと思います。
2024年3月10日日曜日
先週の金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書 シルバーバーチの霊訓(二)十一章 新しい世界 となります。
今回の章のテーマは、「新しい世界」ということですが、内容に入る前に話しておきたいと思ったことは、私にとっての「新し世界」とは、こうしてみなさんと読書会を通して、一緒に学ぶことが出来るようになったことだと感じています。
それから早いもので、ちりりんさんから初めて連絡を頂いたのが2020年4月ですので、もうすぐ4年の歳月が過ぎようとしています。
最初の頃は、ちりりんさんがいないと読書会が始まらない場合もありましたが、現在の北神戸ぷちサークルの読書会は、今回のように”ちりりさん”が不在であっても、進行役のKさんによって円滑に進められています。
振り返ってみると、参加者のみなさんそれぞれが成長されていることを感じております。
そして、足立の読書会も含めて、みなさんと霊的真理について学ぶことが出来ることに、私は深い感謝の思いを持っております。
ですから、もしも私がシルバーバーチと話す機会があるとするならば、読書会を通して出会った人たちと共に学ぶ喜びの機会を与えてくれたことへの感謝の気持ちを伝えたいと思います。
178ページ4行目、
「私たちが携えてきたお土産をよくご覧になってください。いつまでも色褪せることのない、目も眩まんばかりの宝物ばかりです。その光景はいつまでも輝き続けます。われわれのしていることに目を向けはじめる人の数がますます増えつつあります。」
私がイメージする宝物って、たくさんの金貨や宝石が入っている大きな宝箱なのですが、”これって、何かに誰かに洗脳されているのかなぁ?”と、今、初めて思いました。
この現実世界で、実際にそのような金貨や宝石が詰まった宝箱を見たことはないのですから、これまで私は実在しないものを宝物だと思って生きてきたのかもしれませんね。(そのような宝箱を本当に持っている人もいるのでしょうけど)
一方で、子供は宝物だと思う私もいるわけですから、宝物というものが自分でもよくわかっていないようです。
きっとシルバーバーチが語る宝物って、「いくら金銀財宝を積まれても手放すことができないような、決して代わりになるものがない”かけがえのないもの”」という意味だと思うので、金貨や宝石をイメージしてきた私って、何なのでしょうね。
ところで、今現在、どこかしらのシルバーバーチ読書会に参加されている人たちの数は、日本の人口の割合からすれば非常に微々たるものだと思います。
それでも巡り巡って、たとえそれがたった一度きりであったとしても、読書会で一緒に霊的真理を学んだということは、とても凄くて素晴らしいことだと感じております。
また、私たちと方向性の違いから共に学ぶことが出来ない方がいらしたとしても、その方が少しでも人の役に立てるような生き方をされているならば、それはとても素晴らしいことだと思っております。
余談ですが、今までの私は他人を批判することによって、相手を低くし、自分を高くしようとする傾向があったのですが、それがだいぶ改善されてきたように感じています。(いつの日か霊の世界に帰ったら、過去の行いに対して後悔しそうですが、気づけたことも多くて良かったです。)
過去の私は、他人と比較することで優劣をつけ、その判断によって自分の価値がどれくらなのか?ということを無意識の内にもやっていたようです。
しかも、他人を低く思うための理由と自分を高くみせるための言い訳なら、いくらでも自分の中で思いつくわけです。今思うと自分に笑っちゃいますけど、自分が自分を一番認めていなかったから、他人を低くしなければならなかったのだと思います。
そういう訳ですから、自分以外の存在に、自分を認めてもらえるような根拠や理由が欲しかったのだと思います。
それは私が霊的知識をいくら身につけていっても、自分を受け入れるだけの強さが足りていなかったので、本当の私というものを自分の外側に求めてしまっていたからです。
(私と言う人間は、最初は利己的な理由から、利他的な人間になりたいと思いました。たとえば、”利他的であれば認められる”ということがあげられます)
かつての私のように、シルバーバーチの霊訓を学んでいても、(それが無意識であっても)自分を受け入れずに否定したままで霊的成長をしようとすると、他人と比較して優劣をつけることで、自分の霊性の高さを推し量ろうとしてしまうかもしれません。
ここで話を戻そうと思いますが、私の感じている「新しい世界」のイメージは、キリスト教にとっての聖書のように、”シルバーバーチの霊訓だけを最高のもの(神の言葉)として崇めてしまうのはいかがなものでしょうか?”と思っているので、全ての地球人類が「シルバーバーチの霊訓」のみをバイブルとして持っている姿を想像したいとは思えません。
むしろ、今まで救いと神を自分の外側から求めてきた傾向が、自分の内側にそれを見出していく傾向へと変わっていくのが、「新しい世界」であるように感じています。
ですから、宝物は自分の外側にあると思って探し求めてきた世界から、宝物は自分の内側にあることに気がついていく世界へと変わっていくことが、私にとっての「新しい世界」となります。
そのことは、私からすれば二千年以上前から言われてきたことだと思うのですが、まだまだそのようにはなっていないみたいですね。
読書会の中のアイさんの話で、「地球のデトックス」という言葉が出たのですが、その言葉がいつまでも私の中に残っていて、妙に感心してしまったのですけれども、地球と人間とはとても密接な関係であることを知って、”地球にも思いやりを忘れない方がいいよね”と思いました。
それから当たり前ですけど、関西でも職場の問題はたくさんあって、その中でも人間関係の問題が大きいようです。いろいろとみなさん苦労されているのだなと感じました。
以上で報告を終えたいと思います。そして、みなさんの幸せを陰ながら願っていきたいと思います。
2024年3月4日月曜日
今回は、「シルバーバーチの霊訓(一)一章 あなたとは何か」を読み返しながら改めて学んでいきたいと思います。
26ページ1行目、
「いったいあなたとは何なのでしょうか。ご存じですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。」
26ページ6行目、
「今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分かりにならないでしょう。」
何故、私がシルバーバーチの霊訓を学んで、その学んだことをみなさんにお伝えしようとするのか?という問いには、私は次のように答えています。
それは一人でも多くの人が、いや、それがたった一人の人であっても、より良い人生を送るための手助けをしたいと私が望んでいるからです。それが私にとっての喜びの一つだからです。
シルバーバーチによれば、私たちが自分だと思っている「私」という存在は、本来の私のピンの先ほどでしかないということになりそうです。
そして私たちの多くは、自分の身体を通して表現されている一面、つまり、自分を自分として意識できる範囲を「私」として認識しているのではないでしょうか。
そんなことは当たり前と言えば当たり前なのですが、ここでは、”私という存在は、本来、私たちが意識できていない部分が大半であって、私たちが私と思っている部分はピンの先ほどでしかない”というように受け止めています。
と言うことは、私という存在は、自分では意識できない部分が大半であることから、今まで私と思っていた私とは、一体どのような存在なのでしょうか?
ここで、「人」と「人間」というものを考えてみたいと思います。これから述べることは、私というフィルターを通したものなので、一つの意見として参考にしていただきたいと思っています。
私にとって「人」という言葉は、”魂が自分を表現するための道具、あるいは、乗り物”という意味で使用しています。
一方、「人間」という言葉は、肉体と精神を併せ持つ人と、さらに神(大霊)とを繋ぐ架け橋である”魂と呼ばれる神性を宿した存在”を含めている場合に使用しています。
話は変わりますが、私たちが意識できる「私」がピンの先ほどでしかないのでしたら、私たちが「自由意志」と思っているものは、ピンの先ほどの範囲でしかないことになりそうです。
そうだとすれば、本来の私にとっては、この(私だと思っている)自由意志がピンの先ほどでしかないことから、日頃から抱いている”良し悪しや成功や失敗などの判断”は、もしかしたらごく些細なことなのかもしれません。
今回学んだことは、
私が思っている「私」とは、本来の私にとってはピンの先ほどでしかなく、本当の私とは、もしかしたらとてつもなく大きな存在であるかもしれない。
けれどもシルバーバーチの霊訓を読むまでは、そのようなことを私は考えたことがないし、ピンの先ほどの私と本来の私とは分裂したままの状態が当たり前となっていました。しかも、今まで疑問を持つことさえありませんでした。
それから、意識できていない本来の私は、世界と繋がっている。
何故なら本来の私とは、シルバーバーチによれば、神の一部であるということですから、私たちが認識している世界も神の一部であるとすれば、世界は私でもあるということになります。(神の一部という考え方は後ほど出てきます。)
では、私が意識している”この私”とは、一体どういう存在なのでしょうか?
それは今まで私が使ってきた言葉で表すと、本来の私にとっての一つの”焦点”であると言えます。
次に述べることは極端に聞こえるかもしれませんが、私にとっての自由意志とは、”焦点をどこに合わせるのか”という意味合いが強く、それによって世界さえも変わってくると感じております。
そう私は感じているので、シルバーバーチの霊訓で度々出てくる「原因と結果の法則」という言葉を素直に受け止めることが出来ます。
しかし、多くのみなさんにとっては、意識できる私と本来の私とは分離されて繋がっていない状態として(気がつかないまま)受け入れているので、ピンの先ほどの私と世界とは、やはり分離されて繋がっていない状態となっています。
ですから、私たちに苦しみが訪れると、”世界は無情であり味方ではない、しかも私たちではそれをどうすることも出来ないのだ”と感じてしまうかもしれません。
そんな状態の私たちに、霊の世界から次のように語られているようです。
「そうではないのですよ。私たちは神の一部なのですから、もちろん世界と繋がっていますし、葉っぱが一枚落ちたことでさえ神はご存じです。そう言われていますよね。神の一部という言葉を理解するために、ここで”個と全体”という言葉を例にすれば、それは一つのものの在り方を、私たちが理解出来るように言葉によって表現したものですから、一人の人を救うことは、全体を救うことと同じであり、全体を救うことは一人の人を救うことと同じなのです。ですから私たちは、今、出来ることを精一杯するならば、それは全体のために、つまり、世界のためにしていることでもあるのです。」
今回はここまでにして、いずれ機会があれば続きを書きたいと思います。
2024年3月3日日曜日
2月22日金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」には、私自身が新型コロナウイルスに感染していたために欠席をさせていただきました。
参加者の方は、以下の個所を学ばれていると思われます。
使用図書は、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第5章 自由意思 1 そこに選択権はあるか?
今回は参加出来ませんでしたので、新型コロナに罹った話を少ししようと思います。
(ホワイトイーグルの方は、とても良い内容だと感じていますので、後日紹介出来たらしたいと思っています。)
症状としては、最初に身体の倦怠感に伴って喉がとても痛くなり、その後、発熱と頭痛の症状が現れました。咳は出なかったので、他の周りの方たちの話を聞く限りでは、私の症状は比較的軽い方だと思われます。
ここ数年の私は、読書会に参加するきっかけとなった激痛を伴う腰痛以来、歯医者に通うことはあっても、ほとんど病気らしい病気にかかることはありませんでした。
今回、薬局の人の話によると私が来たのが2009年以来とのことでした。そういうことで約15年ぶりに行きつけ(と言えるかどうか?)のクリニックで診てもらったのですが、すでにクリニックの名前が変わっていて、今まで診てもらっていた医師も女医さんへと変わっていました。
実は診察を受ける前までは、私よりも若い女医さんだろうと勝手に想像していたのですが、いざ診てもらったら、明らかに私よりも年配の女医さんでした。
しかも不思議なことに、何故かこのクリニックでこの女医さんに診察を受けていた記憶があるのです。どうしてなのでしょうか?
おそらくそれは、永遠の今(現在)に過去も未来も含まれているということに関係していると感じております。
病院で診察を終えた後に、そのことを下の子に話したのですが、下の子も私と同じような経験を何度もしているようで、今ではあまり気にしないようにしているそうです。
とにかく下の子はスピリチュアルの話をとても嫌がるので、今までそのことは知りませんでした。一方、上の子は何かと信心深いような感じなのですが、私や下の子のような霊的な経験は全くないと言っていました。
新型コロナに罹ってから、仕事を数日間休んだ後に出勤したのですが、数名の方から私の体調を心配し声をかけてくれました。やはり声をかけてくれたことは、とてもありがたかったです。
ところで、私と同時期に新型コロナに感染した人が職場に数名いるのですが、何かそれだけで、一種の仲間意識みたいなものが芽生えて、ほんのちょっぴりお互いの距離が近づいたように感じました。
みなさん出勤はしているものの、それぞれの方に何かしらの後遺症が残っていたようなので、余計にそう感じるのかもしれませんね。
最後に、今回病気になって感じたことは、苦しみの経験を通して他者への理解が深まったということです。それと、私がこの地上を去る時は、そう遠くないと思うようになりました。たとえそれが数十年先であったとしても。
さらに、私の心配事や悩み、苦しみ、あるいはこだわりや執着のほとんどが、この肉体を基準にし、さらに肉体を中心として生きている「この私」が原因であることに、改めて気が付きました。
余談ですが、これまでの私は自分自身を意識したときに、私という存在を”人間という人型”として無意識的にイメージしていました。それが今回病気を経験したせいなのかわかりませんが、いつの間にか私と世界が同じであるように感じています。
このことは、神をイメージしたときにも言えることだと感じています。
おそらくですが、自分という存在を肉体中心にして生きていくと、(それは、表面的な意識では自分が霊であると思っていても、私という存在を人間という人型に囚われているのであれば、)肉体を守る防衛反応としての恐怖心が自分の中に根付いてしまって、それから守るために利己的になりやすいのではないかと感じております。そのことは、快楽についても考えることが出来ると思います。
これを読まれているみなさんだったら、どのようなイメージで自分自身を見ているのでしょうか?私としては気になるところですね。
今回は以上となります。
2024年2月11日日曜日
先週の金曜に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書 シルバーバーチの霊訓(二)十章 霊訓を必要とする時代 168ページ7行目から
168ページ13行目、
「全ての祈り、全ての憧憬は神へ向けるべきです。」
憧憬(しょうけい・どうけい)とは、辞書で調べると、遠く高い目標や理想に心を寄せ、それを追い求める心情を表す言葉であるそうです。一言で表すと、”あこがれること”となります。
つまり、シルバーバーチによれば、全ての祈りや憧れは、神へ向けるべきであるということになります。
とてもシンプルで良いですね。けれども、シルバーバーチの言葉の通りに、素直にそれが出来るかどうかと言えば、なかなか難しいのではないのかと思っています。
何故かと言えば、私の場合を例に出すと、神に対して何かしらの善意の人格を求めていることに気がつきましたし、自分が思い描いている神に気に入ってもらいたいとさえ思っていました。
きっとそれは人それぞれだと思われますが、人の数だけそれぞれの神が存在しているのではないのか?とさえ、感じています。
結局は、自分が思い描く神がどのような存在であるのかによって、違ってくるように感じています。
もしかしたら、何らかの宗教団体と深く関わってきて、今まで一生懸命に神仏などを信仰してきた人ほど、神に対する固定概念が強くなっているかもしれませんね。
169ページ1行目、
「祈りとは波長を合わせることです。すなわち私たちの意志を神の意志と調和させることであり、神とのつながりをより緊密にすることです。」
169ページ6行目、
「何とかして宇宙の心、宇宙の大中心、宇宙をこしらえた神にまず自分が一歩でも近づくように、真剣に祈ることです。」
これは私が読書会でも述べたことですが、肝心な、ここら辺のことを最近の私は疎かにしています。だからと言って、以前は出来ていたのかと言うと、そうでもないのが本当の所です。
けれども自分としては、そのことを先延ばしにしてでも、地上生活での”今”という時を大切に出来る自分になりたいのです。
さらに出来ることなら、それがどのような”今”であっても、楽しめるような自分へと成長したいと思っています。
それはなぜかと言えば、程度の差はあるのですが、かつての私はせっかくの休日であっても、仕事のことが漠然と重くのしかかっていました。
そのため、”この休みが終われば不幸な私に戻ってしまう”と言うようなマイナス思考が自分にまとわりついていたので、仕事の時はもちろん、休みの時でさえ、次の休みの日のことを追い求めている状態でした。
そのような私でしたから、今を生きることが出来なくて、常に理想的な(安心できる)自分を追い求めて、日々、けっして来ることのない未来の自分を生きようとしてきました。
それは、世界はもちろん、他人だけではなく、自分さえも信用することが出来ていない私自身の内部の現われのように感じています。だからそういう自分を変えたいとずっと思ってきました。
そのための努力が一歩でも神へと近づくことに繋がるのでしたら、私としてはありがたいのですけど。
最後に、今回の読書会では、それぞれの方のいろいろな問題やそれに対する対処の仕方などが聞けて、とても面白かったですし、もっと聞きたいと思いました。
やはり職場が違えば抱える問題もそれぞれ違うようですが、大きな問題としてあげられるのは人間関係のようです。
こうしてみんなで学んで話し合うことも、大切な時間ですね。
それでは以上となります。
2024年2月5日月曜日
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)十四章 シルバーバーチの祈り(221ページ5行目)」となります。
今回、私が最初に216~217ページのシルバーバーチの祈りを輪読しました。実際に輪読して感じたことは、シルバーバーチのように、この長い祈りを何も見ずに大霊に捧げることは、「私には無理だな~」というものでした。
この章は今から約8年前に、他の読書会に参加した時に学んでいたのですが、その時の意見の一つに、「言葉使いが古臭い」というのがありました。
今回の読書会での感想でも、「今の時代、このような言葉使いで祈りを捧げている人はいるのだろうか?」という声が出されました。
それから、私よりも若い世代の人たちの中には、「シルバーバーチの霊訓」をすでに古典として扱っている人もいるようです。
だからと言って、シルバーバーチの祈りやシルバーバーチの霊訓の内容が古臭いわけではないと思っています。
216ページ1行目、「ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性に御します。」
”シルバーバーチは、一体どのような焦点を持って、どのような思いを抱いて、この祈りの言葉を捧げたのでしょうか?”
これまでの私は(きっと過去世も含めて)、少しでも大霊を理解するために、霊的知識の収集に努めるための生き方だったと感じています。
自分の中で、去年から続く半年間の迷走状態を経験し、これからは、知識としての生命ではなく、根源そのものとしての生命について学んで行く生き方へとシフトしていく必要を感じるようになりました。
去年、霊の世界から私に対して、「リズム(が足りない・音や動きが必要)」というアドバイスを受けていたので、きっと私の知識の多くは、ただ知っているということに過ぎなかったのかもしれません。
218ページ12行目、
「祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。」
今まで何度も伝えてきたことですが、私の過去の祈りとは、”苦難を避けるための祈り”でした。
それは次のようなことが関係しています。”出来る限り高い霊格の神霊と繋がりを持ち、その神霊のご加護によって、地上世界でのあらゆる苦難を避けることが出来るようになれるのか?”ということが動機となっていて、そのために高い霊格の神霊(スピリット)との繋がりを持つために自分の霊格を高めていくこと。
「それが霊的成長であり、人としての正しい道である」と。(これのどこがおかしいのか?に気づける人は幸いだと思います。)
でも、今の私からみれば、”自分だけは助かりたい”という本音が表に出ていないだけで、まるで”テストの点さえ良ければ合格出来る(救われる)はず”という利己的な面も持ち合わせているのがわかります。(もっとも、これは自分のことなのですけど。)
ちなみに足立の読書会は、そのような利己的な動機のためにあるのではなく、霊的知識のことをみんなと語り合える場としての避難場所の役割を持っています。
219ペー6行目、
「あなた方を悩ます全ての問題を困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時——解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。」
けっきょくシルバーバーチによると、自分でやれるだけのことはやらないと、ダメなわけですね。
220ページ11行目、(主の祈りを受けて)
「今のあなた方には父なる神が天にましますものではないことくらいはお判りになるでしょう。」
シルバーバーチが、”神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。”と語っています。
しかし、特に信仰心を抱いていなければ、”地上には神はいない、もちろん地獄にも神はいない、けれども天国の中でも一番上でなければ神はいない”という思いを漠然と抱いている人が多いのではないのでしょうか?
ところで、”天にましますわれらの父よ、で始まる祈祷文の”主の祈り”に対して、何の益ももたらさない”とシルバーバーチは語っているのですが、中には純粋な心で祈っている人もいるでしょうから、厳しい意見だな~とも感じています。
それでは以上となります。
来月の読書会は、3月17日(日)代々木上原で開催します。
次回の読書会では、資料としてモーゼの十戒を用意して、みなさんとより深い理解が出来るように努めたいと思っています。
2024年1月29日月曜日
先週の金曜日に開催された「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」の報告です。
使用図書は、『カルマの法則 ホワイト・イーグルからのメッセージ』(たま出版)
第4章 機会の法則 2 機会のバランス となります。
114ページ7行目、
「過去の行動によって生じた経験や教訓は、魂が肉体を持ったときに現れます。」
これは、一番最初に私が気になった文章です。
そして、114ページ10行目、
「天使には感情が全くありません。天使が感情的動揺で苦しむことはありません。彼らは、苦痛によって心が動かされることはないのです。」
ホワイトイーグルによれば、”天使には感情が一ミリもない”ということらしいです。
ちりりんさんによると、天使という存在は、人間のように”原因と結果を個々に見ているのではなく、それらを一つとして見ているので、感情で揺れ動くことはない”ということだそうです。
なるほど、そうだとすれば、感情とは”原因と結果との間に生じるが故に、その間で揺らぐものである”と考えられます。
もう一つ考えられることは、魂が肉体を持つことによって感情が生じるのではないかと言うことです。
もしも肉体を持っていなかったとしたら、人間としての価値観も変わるでしょうし、そもそも死というものが存在しないのですから、善悪の判断も同じではないでしょうね。
117ページ11行目から、118ページ9行目まで、
「後悔することは何もありません。自分自身がもたらした人生の状況が、現在のあなたがたにとって必要であることを知り、感謝の気持ちで受け入れてください。(途中省略)あなたがたは、現世で結果を見ることができないにしても、すべての努力はあなたがたをどこかへ導いています。」
ここで出てくる「いかなる努力も無駄にならない」という”ホワイトイーグルの言葉”は、私に生きる意味を与えてくれました。
これは私だけではないと思いますが、どんなに努力しても、頑張っても、上手く行かないことが今まで多々ありました。
それでもホワイトイーグルは、私に”大丈夫だ”と言ってくれているようで、大いに励まされています。
今までわかっているようでわかっていなかったことは、肉体を持っていない状態の私と、肉体を持っている状態の私とでは、同じ私であったとしても、いろいろと違いが生じているだろうということです。
たとえば、”大金持ちになって楽をしたい”という欲望があるとしても、この”肉体のある私”がそう思うだけで、もしかしたら、”魂としての私”は、逆に”苦難を味わってでも成長したい”と思っているかもしれません。
きっと人間と天使との違いは、こういう所にもあると思われます。
それから、今までの私はシルバーバーチの霊訓を学んできても、漠然とですが肉体を持っていることに劣等感を抱いていました。何故なら、”未熟であることは、悪いことである”という思いが、私の中にあるからでしょう。
けれどもありがたいことに、ホワイトイーグルの教えに触れていくうちに、その劣等感が薄らいできたように感じています。 たぶんそれは、ホワイトイーグルが私たちの魂に癒しをもたらしてくれる存在だからなのでしょうね。
今では、”未熟であることは、可能性を秘めている”という思いに変わってきました。
今回は以上となります。
2024年1月21日日曜日
本日開催したオンライン読書会の報告です。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(十)九章 人生は霊的巡礼の旅」164ページ3行目から
169ページ10行目、
「霊的知識をたずさえた者に楽な仕事はありません。知識が増えれば増えるほど、ますます困難に遭遇するものと覚悟してください。こんなことを言うから私は人気が出ないのでしょうね。」
今回、この文章がとても印象に残っていたので、読書会の場で改めて紹介させていただきました。じつは参加者の方からも、「シルバーバーチ自ら”人気がない”と言っているね」という発言がありました。
実際、過去には、「問題を解決したり、病気を癒したり、苦しみを避けるために霊的なことを学んでいるのに、逆に困難になるのは嫌です」というような意見もありました。
さらにブログなどもそうですが、YouTubeで”スピリチュアル、オカルト、霊能者、宇宙連合”などで検索すると、それぞれ数万人単位で視聴されている動画が多いのですが、”スピリチュアリズム”で検索すると、とても人気がないのが一目でわかります。
ですから今、こうして書いている読書会の報告を、いったいどれくらいの人に読んでもらえているのかを考えると、とても少ないと思っています。
そういう私もシルバーバーチの霊訓の音読は別としても、YouTubeでスピリチュアリズムの動画を視聴する気にならないのは、どの動画もあまり面白くないと感じるし、見たいと思えないというのが率直な感想です。
不思議なことに、シルバーバーチの霊訓やホワイトイーグルの教えなどの本は、読んで面白いと感じるのに、どうしてスピリチュアリズムの動画は、あまり面白くないと感じるのでしょうか?
(もっとも、面白くする必要はないと言われるかもしれませんが、魅力がないというのが正しい言い方なのかもしれません。)
けれども、もしかしたら私がそう感じているだけで、本当はそうではないのかもしれませんね。
この続きは、時間のある時に書きたいと思います。
2024年1月14日日曜日
先週の金曜に開催された「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」の報告です。
使用図書 シルバーバーチの霊訓(二)十章 霊訓を必要とする時代 168ページ6行目まで
今回は、いつも司会進行をされているKさんに用事があったので、Kさんの代理として私が司会進行役をさせていただきました。
足立の読書会では、読書会を始める前に、心を落ち着けることを兼ねて数分間の瞑想を行っています。
北神戸ぷちサークルの読書会では、読書会を始める前と終える時に、司会進行の方の祈りが捧げられます。
そういう訳で、私も読書会開催のための祈りを捧げました。
ここでは、その祈りの冒頭だけ紹介したいと思います。
祈り
「シルバーバーチの名は、荒れ果てた不毛の大地にいち早く芽を出し、なおかつ少ない栄養分の中で育つたくましさを持っている白樺の木に由来しております。
今日、ここに参加している私たちは、かつて先人たちが過酷な状況の下で蒔いてきた”霊的真理”という種を、この地上世界で育み、収穫し、さらに多くの種を蒔くための役割を担っております。……。」
164ページ4行目、
「その人たちの心の奥に、自分にも気づかずにいるある種の願望があります。それは永遠の実在の証を求める心です。」
シルバーバーチが語るように、これまで私もずっとその願望を持ち続けてきました。けれどもこれは表面的かもしれませんが、そのような願望を抱いている人は、少ないように感じております。
たとえば職場の人たちを見ても、永遠の実在の証よりは、日々の快楽の方に目を向けて、それを求めている人が多いように感じていますし、多かれ少なかれ、そういう私もそのような快楽を求めている一人であることは間違いないことでしょう。
それはそれとして、これまで”永遠の実在の証を求める心”に応えるために、北神戸ぷちサークルのシルバーバーチ読書会は役に立ってこられたと思っています。
これは、少し前に聞いた話ですが、今後のシルバーバーチ読書会の在り方の一つとして、ホームページなどで公開せずに、ごく少人数のグループで自由な日時で行われる方法があるようです。
これも、オンラインでのやり取りがごく日常的に出来るようなったことと、2人以上いれば行われる少人数の場合は、日程や時間の調整をつけやすいからのようです。
もっと踏み込んだ話をすると、せっかく(若い世代も含めて)シルバーバーチの霊訓を学ぼうと思っても、「シルバーバーチ読書会には、いろいろな組織や派閥が存在し、そこには上下関係だけではなく、本物と偽物が存在し、しかも争いまでもがあるようで、そんなものには絶対に巻き込まれたくない」というのがあるようです。
実際に、そのようなことがあるのかもしれませんが、これはシルバーバーチ読書会に限った事ではなく、私の職場や労働組合に目を向けただけでもいろいろな問題がありますし、地域や家庭に目を向けてもそうだと思います。
ですから、わざわざ自ら争いの種を蒔く人たちを見ると、「きっとその人たちは、とても暇なのか寂しいのかわかりませんが、自分が満たされないために他人にかまってもらいたいのだろう」と思う時があります。
「魂の自由と平和を求めてスピリチュアリズムを学ぼうとしている人に、もしも私たちが正義の名のもとに組織や教義などを押し付けて干渉し、逆にその人から魂の自由と平和を奪うことをするならば、何れシルバーバーチ読書会そのものが”カルト集団”として扱われてしまうかもしれない」と危惧しております。
そして、霊の世界の働きかけをご存じならば、スピリットたちが、各自の霊性に合わせてそれぞれ導いてくれていることや、学びの面でも、やはりいろいろな段階があることから、それぞれ各自にあったグループや場などが用意されていることを理解されていると思います。
けれども、イエスとシルバーバーチの関係を、地上世界のようなヒエラルキー(ピラミッド型の階級組織構造のことで、そこには高い低いなど順序やランクが存在している)の関係に当てはめて考えている人が読書会を開催すれば、おのずとそこには、自分を頂点としたヒエラルキー型の読書会となってしまうことは予想がつくと思います。
私から言わせてもらえば、スピリットたちはそのようなピラミッド型の階級組織構造というよりは、シルバーバーチの例えを使って強いて言えば、「スピリットたちは、ダイヤモンドのそれぞれの側面として、それぞれに合った働きをされている」という表現が良いのではないかと感じております。
つまり、それぞれもとは同じダイヤモンドなのですが、一つ一つの側面として、個々それぞれに輝いている状態であり、また、その側面そのものが、私たちの目には一つのダイヤモンドとして輝いて見えている。さらにそれが、限りなく繰り返され広がっている。とでも言えば、わかるでしょうか?
これはわかる人にはわかるのですが、霊の世界から(私に)伝えられている、”個であり全体である”という言葉は、”一つの側面でありダイヤモンドである”と言い換えることが出来ます。
確かにダイヤモンドを実際に見てみると、それぞれの面には輝きの違いはあるとしても、そこには高低や上下があるとは言えないですし、もしも一つの面が素晴らしく輝いているように見えても、それは、同じダイヤモンドの一部であり、それのみでは同じように輝いては見えないということを理解されるはずです。ですから、その反対の(悪と言われる)状態も理解することが出来ると思います。
難しいことは置いといて、たぶん今後は、従来の読書会の在り方にこだわらず、もっと柔軟なやり方を取り入れて、シルバーバーチの霊訓が存続されていくように感じています。
そのことは、私ではなく、これからの若い世代の人たちに託されているのだと思います。
シルバーバーチの霊訓を共に学んでいる方たちのためにも、軍隊やカルトのような思想で歪められないように、私は少しでも力になりたいと思っています。
というわけで、ただの会社員のオッサンでも、こうして役に立ちたいと思えるのですから、シルバーバーチの霊訓はやっぱりこれからも残していきたいと改めて思いました。
今回は以上となります。
2024年1月8日月曜日
昨日開催の読書会の報告をしたいと思います。
205ページの最後に、「──いわゆる”神童”について説明していただけませんか。」という質問が出されています。
それに対する解答は、「三つの種類があります。一つは過去世の体験をそのまま携えて再生した人。二つ目はたとえ無意識であっても霊媒的素質を具えた人で、霊界の学問や叡智、知識、真理等を直接的にキャッチする人。三つめは進化の前衛としての、いわゆる天才です」
参加者の方たちは、この質問と解答に興味を持っていたようで、具体的な例を出して話し合いました。
一つ目の「過去世の体験をそのまま携えて再生した人」については、書籍やブログ、YouTubeなどをみると、確かにそのような子供たちがいるのがわかります。
さらに、そのような子供たちは、二つ目の霊媒的素質を具えている場合も多いようですし、しかも、三つ目の進化の前衛としての、いわゆる天才であるのかもしれません。
ところで、ある人のブログを私は定期的に見ているのですが、その方の息子さん(その当時は7~8歳)が話す内容は、前世の記憶のみならず、霊的真理そのものが含まれていて、いろいろと勉強させてもらっています。
そして改めて「この子は凄いな~」と感じているのですが、そのブログをのせている方(母親)も、さらに父親も霊的な能力があるようです。
それから、私のことを読書会の場で聞かれたので、一応紹介します。
私の場合は、子供の頃から”肉体の死はあるけれども、永遠に霊として生き続けていく”ことがわかっていたので、「人間は死んでも終わりではないから、お父さんも今の内に死後の準備をしなければ後悔するよ」と話したり、喘息の苦しみから逃れたい一心で、心霊治療を習得するための勉強をしたり、あるいは、所かまわず心霊関係の本や漫画を読みまくったり、学校の中でテレパシー実験をしてみたりと、とにかく変な人間でした。
その頃の私の母親も相当変わっていて、心霊体験や心霊写真の話を、当時、5~6歳の私に普通に話していました。父親はそういう話をほとんど信じない人でしたが、今、振り返ると、頭ごなしに否定されたことはなかったので、「私はこの両親を選んで生まれてきたんだな~」と思えるようになりました。
そういう優しさもあるのですね。
このことは個人差が大きいことが前提としてありますが、私よりも幼い子供たちの方が進化しているのを感じていますし、物質的な欲がはるかに少ないように感じられます。
話は変わりますが、読書会の後半で話されたことで、「私たちが地上に生まれてくる理由として、”霊的成長”ということがよく言われていますが、最近になって、”経験”そのもののために生まれてくるのではないのか?と思うようになりました。」というのがありました。
ちなみに、”経験とは、実際に見たり聞いたり行動することによって体験し、そこから得た知識や学びなどを身に付けていくこと”なので、私は「なるほどな~」と思いました。
また、ここでは詳しく説明出来ませんが、みなさんと読書会の中で話を進めていく中で、「何故、そう思うようになったのか?」についても聞くことが出来ました。
そして読書会を終えて、今、改めて”霊的成長”ということについて考えてみると、「霊的成長という言葉の意味の受け取り方は、人それぞれで違うのではないだろうか?」という疑問が沸いて考えてみました。
これから紹介するのは、とある女性の話ですが、ブログなどでシルバーバーチの霊訓をスピリチュアリズムの基礎として紹介している一方で、有料でスピリチュアルの講義などをされている方がおられます。
その方のブログによると、昨年の年収が一千万円を超えて喜んでおられていて、「いずれ年収が五千万円、さらには一億円を超える頃には、今よりはるかにパワーアップしていることでしょう」とのことでした。
きっと、その方にとっては、それが自分にとっての霊的成長だと感じているのかもしれませんね。
今紹介した話は、いろいろな例のごく一部にしかすぎませんが、それを良いと思うのも、あるいは、そうではないと思うのも、一人一人感じ方が違うと思われます。
何故なら、もしもこの方を批判する場合でも、その基準が霊的真理によるものと言うよりは、どこまで突き詰めていっても、批判する側の基準であると思うからです。
極端な話ですが、もしも私がメダカでしたらお金についてはどうでもいいことですし、タンポポであっても同じことです。
つまりここで言いたいことは、これを読んでいる私たちが、今、地上世界で生きている人間であるからこそ、それに対する良し悪しを判断することが出来るのではないでしょうか?ということです。
まぁ私からすれば、自分の年収があがることが霊的成長であるとは思えませんが、もしかしたら、「物的に豊かなのは、霊的な豊かさを反映しているからです」と言われるかもしれませんね。
207ページ3行目、
「スピリチュアリズムの基本は詰まるところ物的な豊かさよりも霊的な豊かさを求めることであり、自分自身と宇宙と神についての実相を理解する上で基本となるべき摂理と実在を知ることです。」
「むろん物的生活と霊的生活とは互いに融合し調和しております。両者の間にはっきりした一線を画すことはできません。霊的なものが物的世界へ顕現し、物的なものが霊的なものへ制約を与え、条件づけております」
やはり私は、このようなシルバーバーチが語る言葉を大切にしていきたいと感じています。
最後に、私はそうと言いつつも、私たちは地上世界でさまざまな体験をし、その体験を通して学んで成長していくことが経験であるとするならば、本来そこには良し悪しなど存在しないのではないだろうか?というのが、今回、読書会で話し合って出された答えでした。
もっとも最近の私は、神という存在に対して、反抗期と言うわけではないのですが、良い子ちゃんでいたいと思わなくなっているせいなのか、そんなのどっちだっていいんじゃないのと思ったりします。
私はこのようにひねくれていますので、自分に対しても、霊的成長を頑張って、一人でも多くの人を霊的に目覚めさせたいと思うのは、それだけ神に良い子だと思われて、神に見返りを期待しているからだろうし、今より霊性が少しでも向上して欲しいと思うのだって、利己心がそうさせているからだろうと思うくらいなので、けっこう私は重症なのではないかと思われます。
この”ひねくれた性格”をどうにかした方が良いのかもしれませんね。
ということで、読書会の報告を終えたいと思います。
2024年1月7日日曜日
本日「足立シルバーバーチ読書会」を開催しました。
使用図書は、「シルバーバーチの霊訓(三)十三章 質問に答える」205ページ12行目からとなります。
内容については、後日、お伝えしたいと思います。