2024年11月24日日曜日
自分に対してのメモとして
私が自分のことで改善しなければならないと思ったことは、自分が世界を正していきたいとか、自分と関わる人全員の問題を解決したいとか考える癖なのだと思います。
そして、そのような問題を自分自身のカルマのように一時的に思い込んで、他人の責任を引き受けすぎてしまう傾向があることがわかってきました。
そのような傾向を今までの私は、それが人としての思いやりの証であると思っていたので、そのせいで大きな負担を感じてしまったとしても、何とかして相手のためにやり遂げようとしてきたのです。
しかし、そのことによって相手の成長の機会を奪ってしまっていることに気づきませんでした。
相手が自分自身の問題を自分で解決する代わりに(それが無意識的であったとしても)、その問題を私に押し付ける形で解決しようとしているのがわかっている時でさえ、代わりに引き受けてしまうことが私の問題点でした。
それでも過去に何度も痛い目にあったので(特に金銭面について)、今はだいぶ改善されてきたと思っています。
つまり、過去世から続く今までの私は、その場しのぎの幸せや安定を得るために疲弊し、それが相手の成長の機会を奪うことになってしまうことに気が付かなかったのです。
ただ、その場しのぎの一時的な幸せや安定であっても、それを得ることが間違いだとは思っていません。
とは言え、そのことで相手の成長の機会を奪ってしまうならば、それは本当の優しさや思いやりではないと思えるようになりました。
だから反対に、神や他の何かに頼れば救ってくれるという発想は、私的には疑問に思います。
それと、サービスはとても大切なことですが、それによって何が生み出されるのかを見通す力も必要であると感じました。
それとは違う話になるのですが、もしも私に霊視能力があったとすれば、霊視を通して見る世界の美しさに心を奪われて、今の人生をすぐに終わらせてしまうか、あるいは生きていることに絶望してしまうか、というような状態に陥る可能性があるようです。
けっこうそのような人もいるみたいなので、霊能力がないことがその人にとってベストであったりすることもあるようです。たとえば、寝ている時にはその内容を覚えていても、起きた時にはすっかり忘れているのが望ましいこともあるのでしょう。
それはそれとして数年後には、私はまた違う視点で見ているかもしれません。
でも、今まで自分には見えなかった世界が(目で見るわけではないのですが)見えてくるというのは、やっぱり嬉しいことです。
2024年11月23日土曜日
今回は、言いたいこと言っているだけですので、読み飛ばして下さい。
私は地球人類が、(今、ここでは日本人が)どのような方向に行こうとも、干渉しないというのが約束です。何故なら、私の故郷がここではないからです。
ここで書いている私はただの人間なのですが、足立の霊団と呼ばれるみなさんは、少しだけ従来のスピリチュアリズムと呼ばれている取り組みとは違う働きがあるのを感じています。それは、宇宙的な存在としての取り組みが含まれているからです。
私が何故、このような文章を書いているのかと言うと、まず、みなさんが人間と呼んでいる存在が、地球の他にも存在していることを受け入れる時期に来ているからです。
これを読んでいるみなさんは、もしも宇宙の広さに思いを馳せることが出来るのなら、私が先に述べたことを安易に否定出来ないだろうと思います。
私がこのようなことを書くのには理由があります。
正直に言わせてもらうと、シルバーバーチの霊訓だけに従えば人類が救われるというのは、妄想としか言えないと思えます。
さらにシルバーバーチの霊訓にナザレのイエスを用いたとしてもそう感じています。
他の人の立場となったとして、私たちは聖書に書かれていることに従えば、人類が救われるのでしょうか?
主役は私たちであって、霊訓や聖書が私たちの上に存在する神や主役ではないのです。
私たちが霊訓を活用することと、霊訓に従うこととは違うことです。
神を用いて、または、神を理由として、あるいは聖書や聖典を掲げて、いつの世も人間同士で争っているのを見ていると、同じことを何度繰り返せば、あるいは、何度やり直せば、この争いを終わらせることが出来るのでしょうか?と思わずにはいられません。
もしも、自分の見ている世界に争いが見えるのなら、それが今の地上世界でもそうですけど、たとえ霊の世界に行ったとしても、同じような(みなさんが幽界と呼んでいる世界でも)争いが続く可能性があります。
そして、今度こそ、今度こそ、と思いながら、自分こそが正義であると信じては、同じことを繰り返してしまうのです。
滑稽なことに、自分は世界を救えるとか、あの人は偽物とか、自分こそ神や大霊に選ばれたとか、自分は特別であると言う人が、シルバーバーチの霊訓を学んでいると自負する人の中にも現れています。
それは、本人にとっては本当のことかもしれませんが、そこにある真の動機が他の次元からすれば丸見えなのです。たぶんもう少し、他人の良い所を見る努力をされることで、より幸せに生きられるような気がします。
そういう状況なので、シルバーバーチの霊訓でも述べられていることを、改めてここで述べたいと思います。
私たちは誰もが大霊の一部です。それは、みなさんの言葉や概念で言えば、私たちは神の一部なのです。
しかも、神、いや、大霊に対して、私たちが持つような上下の概念や善悪の概念を抱くことなど出来るのでしょうか?
普通は抱けないと思います。
神の一部であるということは、神であるということです。何故なら、神のこの一部は神ではなく、神のこの一部は重要だけど、神のこの一部は大したことがない。ここからここは特別な一部だけど、ここからここは未熟な一部である。とはならないはずです。もしもそうだとすれば、神は神ではないものをその一部に有していることになります。
誰もが神の一部なのですから、誰もが特別であり、選ばれた存在であると言えるでしょう。ですから、誰もが世界を救おうと思うことも出来ますし、それを実践するのもしないのも自分次第です。もちろん、そのように思わないことも出来ます。
それが何故か多くの場合、神の一部という概念となると、上とか下とか善とか悪とか、正しいとか間違いとか、または特別とか選ばれたとかなるみたいですね。
そういう場合、その人たちの中では、神の一部たちが分離して、バラバラの状態となっているように思います。
そのように言っている私が、実は小学生の時にはそう思っていたので、神は特別な人をつくったり、えこひいきをするのだと思っていました。
それはそれとして、他人を見る時に、その人の内奥にある魂を見る努力をしていけば、私たちは同じ根源を共にする兄弟姉妹であることが感じられるようになるでしょう。
それを感じられるようになれば、自分が他人よりも上になる、あるいは上である必要を感じなくなると思います。
神の一部である私たちが、目に見えない所では、お互いに繋がっていることをわかっているからです。
2024年11月18日月曜日
今回は、私の妄想の話となります。
長くなると思うので、今後、何回かに分けて書くことになるかもしれません。
これまで自分の中でタブーとしてきた宇宙人などの話が、数年前のある日の読書会での出来事をきっかけとして自分でも本を読んだり調べたりするようになって、UFOのことも含めてみなさんと話すようになりました。
一時は、宇宙人やUFOに関する本に限らず退行催眠などの本、または、少しずつですが日本語訳になっていない英語の本(放浪者のハンドブック)などを読んだりもして、けっこうな時間をかけて自分なりに学んできました。
なぜ、私が今回、妄想話を書きたくなったのか?
その理由は、私の中で”アンタレス”という言葉が響いているからです。(書いている途中で、響かなくなりました。)
その”アンタレス”と私とは、どうやら何らかの関係があるようなのです。ちなみにプレアデス?と自分の中で聞いてみたら、否定、沈黙……。
もしかしたら、私の誕生日の星座がさそり座であり、私の誕生日と二日違いの母もさそり座であることが原因としてあるのかもしれません。
だから、これから話すことは私の妄想の可能性が大いにあるので、このことをここで伝えることは初めてですし、そもそも宇宙人について真剣に考えること自体がここ数年の出来事なのです。
そういえば、”アンタレス”と言う言葉を初めて知ったのは、私がまだ小学生の頃で星座占いというものがあることを知ってからです。
その当時は、たしか血液型占いもとても流行っていて、クラスメイトたちで、何座?何型?という話をしているのを思い出しました。
昨日の読書会で話したことにも関係していますが、今の世界の人口は81億人を超えていて、100年前の1920年の世界人口は、18.6億人だと推計されています。ちなみに2000年前のナザレのイエスがいた時代は、3億人に満たなかったと推測されています。
今から200年以上前の西暦1800年では、世界の人口が10億人に届いていなかったそうです。その頃はすでにイギリスで産業革命が起こっており、その後、スピリチュアリズムが1848年に、アメリカのニューヨーク州ハイズヴィルの出来事をきっかけとして起こったとされています。
私が感じる所では、世界の人口の急激な増加(1850年の世界人口は12.6億人の推計)は、地上的な視点で見れば産業革命がもたらしたことが明らかですが、私としては、スピリチュアリズムとの関係が気になりました。
世界の爆発的な人口増加は、媒体となる肉体に限らず、それだけ地球人として生きるための魂たちが必要であるとも言えます。
このことは、「肉体の死によって魂となる」と思っている人には理解が出来ないかもしれません。何故なら、地上で人間(の肉体)が増えるせいで、その分、死んで霊となる魂が増えていくと思っているのが一般的でしょうから。
ちなみに世界人口のピークは2080年代半ばとされており、およそ103億人まで人口が増え続け、その後減少するのではないかと推測されているようです。
今の私では、霊の世界で生きる地球のスピリットの人数はわかりませんが、それにしても、とても多くの人たちが地球人類として生きていることに驚いています。
今から数年前の私はまだ地球外の人たちに目がいかなかったこともあり、世界の人口増加の原因は、地球に新しく生まれてくる魂たちと、これまでのカルマが原因で再生が必要な魂たち、そして、ボランティアをするために生まれてくる(地球人の霊の)魂によるものだと思っていました。
地上への再生を必要とする魂が多いために世界の人口が増え続け、それだけ多くの魂にとっては、霊性進化の道があまり順調ではないことが考えられます。
そのように思う反面、ある疑問が浮かんでいたのです。
なんでこんなに急激に地球人類を増やすのでしょうか?と。偶然はないと言いますし……。
それに、シルバーバーチの霊訓だって、それほど普及していないように感じます。そもそも日本では、キリスト教を信仰している人が少ないだろうし、しかも聖書を読んだことのある人だってあまりいないのが現状で、クリスマスのシーズンでも、イエスの名を呼ぶ人は少ないですし、さらに、スピリチュアリズムと言う言葉を聞いたことさえないのが大半のようなのですから。
これでは、いくらみんなで頑張ったとしても、霊的に無知な人たちが、さらにどんどん増えていくだけなのではないか?と思ってしまいました。
ですが、インターネットの普及によって、子供の頃には考えられなかったことが起きているのも事実です。
今、私以外の方が、この私の妄想話を読んで下さっているということが、今までではあり得なかったことなのです。
今までは、まだ見ぬ人たちと潜在的には霊的な繋がりが出来たとしても、顕在的な繋がりを実際に持つことはとても困難だったのですが、それが、今日の科学的な進歩によって容易になってきたのです。
だからと言って、インターネットの普及によって霊的に目覚める人が増えたのかと言うと、そこはどうなのでしょうかね?と思います。でも、それによってお互い知り合うことが出来て、ともに霊的知識を学ぶ機会が増えたのも事実です。
う~ん、ちょっと待って、結局、私は何が言いたいのでしょうか?
そうそう、この世界人口が急激に増えた原因は、地球の科学的な進歩の背景の裏に、地球の枠を超えた宇宙規模の霊的なことも含めた計画があるということです。
その計画を私たちは、”神の計画”と呼んでいるようです。それは、多くの人々が地球中心の視点で宇宙を見ていることと、地球の人々が地球を超えた大いなる存在を神と呼んでいることから、そう呼んでいるように感じます。
たぶん、シルバーバーチの霊訓で言えば、それがスピリチュアリズムということになるのかもしれません。が、どうしても地球中心の視点で見てしまうために、やはり私の経験からすると、スピリチュアリズムという言葉からは、ナザレのイエスや地球のスピリットたちなど、地球の範囲での視点でしか見えなくなってしまうように感じます。
私からすれば、今の世界には、広大な宇宙のことも、地球を中心とした地動説的な見方をしている人が多いように感じられます。
それはそうとして、これまでは、初めて新しく地球人として生まれてくるほとんどの魂たちが、植物や動物などからの進化を経た人たちで構成されていると思ってきました。それが間違いだと言うのではなくて、その中には、地球以外からやってきた魂たちが多く含まれているということを私は伝えたいのです。
もちろん、もとは宇宙人であったとしても、もしかしたら天使とかかもしれませんが、地球で生まれれば地球人となるわけです。
それでは何のためにそうしているのか?という疑問が生まれます。
だって霊界主導で、しかも神の計画があるならば、霊界の方で再生も含めた魂に対して、地球に生まれてくるための資格や条件、あるいは制限を設ければ良いのではないのでしょうか?
たぶん、人間の私が思いつくものとは、違っているのでしょうね。
それはそうとして、ここ最近の私の妄想は膨らんできていて、今までの地球を中心とした視点から、宇宙から地球を見るような視点へと変わりつつあります。そのため私の抱く妄想も、まだ狭いですけど宇宙規模へと変わってきました。
本音を言うと、ある程度(居候がいた3年ほど)の期間でしたが、この先自分はどうしたらよいのか見えてこなかったので、これで暇つぶしが出来ると思いホッとしました。自分で言うのも何ですが、私は本当にろくでもない人間なのかもしれませんね。
ただ、それと同時に、少しでもみなさんの役に立ちたいという思いもあります。
続きはまた気が向いたら書きたいと思います。
2024年11月13日水曜日
ここ数年の間、私の中で漠然としたある思いがよぎっては消えていき、再びよぎっては消えていき、ということを幾度となく繰り返してきました。
その”ある思い”とは、「私の生きていく方向性がおかしくないだろうか?と何となく感じている」というものでした。
それで今回メモしたことを、ここで書いておこうと思います。
以下は自分のノートにメモしたことです。
私は、「今まで生きるということは、何かを得ることだ」と思っていました。
そのために努力をして成長していくのだと思っていました。
けれども、もしかしたら「生きるということは、何かを与えることなのかもしれない」と思うようになりました。
どうしてそう思ったのかと言うと、ふと、ヒーリングや読書会に協力されているスピリットたちのことが思い浮かんだからです。
それで、”足立の霊団”と呼ばれるスピリットたちに意識を向けてみると、どうやら私のように「何かを得るための生き方」をしているのではなくて、「何かを与えていくための生き方」をしているように感じるのです。
結局のところ、その何かとは、行く着く先は”愛”であると思うのです。
が、その肝心な愛が私の中では不足しているのがわかるので、どうしていけば良いのかなぁというのが今の現状です。
あと、”足立の霊団”って、宇宙人と言われている存在かもしれないと感じてきています。
終わり
ということで、メモは以上で終わりとなります。
2024年11月1日金曜日
今回は、半月くらい前の話となります。
数年前のことですが、私にヒーリングの依頼とスピリチュアリズムの勉強をお願いされた高齢のご夫婦がおられます。
最近になって、その奥様から「又私に課題を頂戴頂けませんでしょうか?」とのメールが来ました。
そこで私は、ウィリアム・T・ステッド著(桑原啓善 妙訳)「ジュリアの音信」の本を贈って、「もしよろしければ、ご夫婦で読んで下さい」と返信しました。
そのご夫婦も、今までシルバーバーチの霊訓や霊の書などを読んで勉強されてきたのですが、自分たちには少し難しいとのことでした。そこでピンときたのが、「ジュリアの音信」だったわけです。
そして、その本をプレゼントしたことで、私が思っていた以上にご夫婦にとても喜ばれたので、私はとても嬉しくなりました。
このご夫婦のように、「ジュリアの音信」のようなスピリットに関する本を”宝物”だと言ってくれる方が、私の周りにどれだけいることでしょうか?
そう考えると、とてもありがたい気持ちになります。
せっかくなのでこの機会に、私も「ジュリアの音信」を読み返している所です。
もちろん職場でも普通に読んでいますので、もしかしたら私は少し(ではないかもしれませんが)変だと思われているかもしれません。
「ジュリアの音信」の中で(1895年3月23日受信)された内容に興味を引きました。以下はその一部です。
「私が前にお話ししました、主にお会いした時の、あの喜びと驚きの状態から我に返った時、何と申しますか、主の余りの謙遜な雰囲気に恐れ入るばかりでした。威光とか威圧とか荘厳とか、人の心を恐れかしこませるようなものは少しもなかったのです。主が私の心にお残しになった印象は、限りない愛の誘引でした。それに、その愛とは私への個人愛なのです。嫉妬の感じ、そんなものはみじんもない。主は他の個人を愛されるように私個人を愛され、私からの愛をもお望みだったのです。そうでなければ、私も主も完全ではございません。(あら、貴方は私の言葉が神を汚しているとおもいましたね、私も一時はそうだと思いました)でも、理想から申しますと、不完全がないとは言えません。(以下は省略しました)」
この部分を読んで思い出したのは、「北風と太陽」の話です。
ひと昔前までは、霊性の高さとは、ある種の威光とか威圧とか荘厳とかがセットでついてきたようなイメージがあったような気がします。まぁ、北風と太陽で例えるなら”北風”ですね。
ですがここでは、主のあまりの謙遜な雰囲気、あるいは、人の心を恐れかしこませるようなものは少しもなかったというように、例えるなら”太陽”なのでしょうね。
それはきっと、自分の中にある愛に関係があるのだと感じています。
ジュリアの音信で語られていることは、人によってさまざまな受け止め方があると思われますが、答えは自分自身の中にあると思っていますので、人それぞれ、さまざまな受け止め方で良いのだと思っています。
みなさんも、一度は「ジュリアの音信」に触れてみるのも良いのではないでしょうか?
今回は以上となります。
2024年10月7日月曜日
先週の金曜日に、わが家に約三年間居候をしていた次男の友人が独り立ちしていきました。
片親だった彼の母親は数年前に他界し、その後一緒に住んでいた兄弟ともども住居を追い出され、親戚たちもすでに亡くなっていました。そして、誰も頼れる人がいないということで、わが家で一時的に預かるということで同居が始まりました。
そもそもその彼は、ネグレクトの家庭で育ってきたために、いろいろと大変でした。
彼とその兄弟が住居を追い出されたのは、家賃の滞納が原因だったようですが、部屋をゴミ屋敷にしてしまったことも大きな原因だったようです。
彼がきてすぐに、彼が使用する部屋でバルサンを使用したものの、それでもわが家にゴキブリが出てしまったので驚いてしまいました。けれども、今では懐かしく感じています。
さらに、しばらくしてから再びゴキブリが出始めたので、彼が使用している部屋を見てみたら、やはりゴミが散乱としていました。その時は、長男と一緒に部屋を片付けました。
この間、いろいろと彼に注意をしましたが、そもそも彼は二十年以上も、まともな躾をされたことがなかったのです。
もっとも私は、躾に関しては自分でもいい加減なことがわかっているので(例えば、一つの引き出しに50冊以上の本が収納出来るのですが、それでも本が多すぎて床に置かざるおえない状況となり、段ボールに入れて置いたりしています)、よっぽどなことが無ければ口出しはしない方だと思っています。
それから彼に関して驚いたことの一つに、今までお風呂に入ってシャワーを浴びても、湯舟につかったことがなかった。というのがあります。
推測されるのは、彼の母親がほとんど寝たきりだったこともあり、かつて住んでいた住居の湯舟には、物が散乱としていてお湯が入れられない状態だっと思われます。
とにかくゴミを出して捨てる習慣や毎日シャワーを浴びて身体を清潔にする習慣を身に付けてもらうことと、衣類の洗濯を欠かさないようにしてもらうだけでも大変でした。
彼は独り立ちをしましたが、わが家から歩いて5分ほどの所に部屋を借りて住んでいるので、何か困ったことがあれば引き続き支えてあげたいと思いますが、今は様子を見て見守るだけにとどめておきたいと思っています。
2024年9月28日土曜日
今月の「北神戸ぷちサークル主催ホワイトイーグル読書会」は、所用のため参加出来ませんでした。
来月は参加する予定ですので、よろしくお願いいたします。
最近の私は、いろいろな経験をしながら学んでいる所です。
一度、立ち止まって自分を振り返る時期に来ているように感じています。
理由として、今までの自分のままでは型にハマった道を歩んでしまい、読書会を開催しているとは言え、まるで操り人形のような生き方をしている気がするからです。
それと知らず知らずの内に、地上世界での常識という名の洗脳を、私は受けてきたのではないのか?という感覚も芽生えてきています。
何となくですが、私の中で(一般常識だけではなく霊的知識も含めて)正しいと思ってきたことが、実は注意深くならなければ、人間をロボット化する方向へと歩んでしまうものであると感じてきています。
たとえば霊的知識を得ることで、この地上世界は自分が成長するための学びの世界だと自分で位置づけたのなら、それを上手くクリア出来なければダメだ。と自分の中で決めつけてしまう場合があるかもしれません。
けれども、それがなかなか思うように出来ずに、知識を得ているという理由から、人によっては罪悪感を抱いてしまうかもしれません。
それは、心配や恐怖を自分の中に抱いてはいけない。ということにも言えると思います。
でも、私たちはロボットではないし、操り人形でもないし、人間です。
いろいろと失敗もするし、歩む道はそれぞれ違っていて良いはずです。
今は詳しいことを書けそうにありませんが、自分がどのように学び、どのように生きていくのか?を論じることも必要だと思いますが、自分の中にどれだけの愛を育んで、それをどれだけ分かち合うことが出来るのか?の方が、人間であるならば大切だと感じています。
自分の中にどのような愛があるのか?に無頓着なままでは、いくら霊的知識を学んだとしても、自分が求めている幸せを掴めそうにない予感がしています。
ただ、今はまだ私自身が掴みきれていない状態ですので、中途半端で伝えたいこともほとんど伝えられないままですが、これで終えたいと思います。
2024年9月15日日曜日
今月の「北神戸ぷちサークル主催シルバーバーチ読書会」は、所用のため参加出来ませんでした。
2024年7月28日日曜日
ちょうど一週間前に、私がミスやトラブルを起こしたことをここで報告したばかりなのに、その後にさらに仕事でちょっとしたミスを起こしてしまいました。
幸いなことにそれほど大事には至らなかったのですが、それでも周囲の人に迷惑をかけてしまったことには変わりません。
それから、今まで未解決だった問題が解決したこともあり、ほっとする半面、すっかり自分と言う存在に自信が無くなってしまいました。
今回の一連の経験から、自分とはこうであると思ってきた私と、実際にみなさんに見せている私とでは違うのだと実感しました。さらに、みなさんには私という存在が、それぞれ違って見えていることでしょう。
そして、もう一つわかったことは、”より大きな力の働きの前では私は本当に無力である”ということです。
今回に限らず、これまでにそのような経験を繰り返してきたことによって、「他人よりも霊の世界のことを知っているから、私の中では、自分が少しは特別な存在なのだと思ってきたけど、本当はつくづく凡人でしかないんだな~」「これまでやってこれたのも、不器用な生き方しかできない自分だから、それなりに努力してきたからだと思うけど、周囲の人やスピリットたちに助けられてきたことが大きいからなんだな~」と思うようになりました。
気が付いたらいつの間にか、”無意識的に他人をジャッジする”ということがほぼ無くなっていたことに気が付きました。(まったく無くなったわけではないことは、自分の中に流れているエネルギーで感じられます。)
考えられることは、今回、ミスやトラブルを続けて起こした私ですが、だからと言って、それだけで私の価値が決まってしまったり、私の中に良い所がまったく無いのだとは言えないと思います。(そう思いたいです。)
さらにそのことは、私に限らず他の人たちもそうであるということに気がついたので(どうやら、自分の中で知識として知り得たことでも、その知識に経験を伴わなければ、真の知識となり得ないことがあるようです)、表面的な一部分のみで人を判断することを止めたからだと思います。
それは他人を見る時に限らず自分を見る時にも当てはまることで、私の場合、自分を見る時に”自分の都合の良い所だけ”を見てきたのだと思います。
具体的には、自分の良い所も、自分の悪い所も、それら全部を含めて、自分にとって都合の良い所を切り取って見てきたということです。
(他人だけではなく、自分を受け入れるためには、自分の寛容性に関わってくるのだと思われます。)
だから今まで他人を見る時も、他人の一部だけを切り取って、自分の都合の良いように判断してきたのだと思います。
それから、もう一つ私が改めようと思ったことは、霊的知識が他人よりもあるという自負が弊害して、”物事に対する決めつけ”をしてしまうことです。それによって、洞察力が働かない場合が多々あることに気が付きました。
最後に、苦難が起こった時に、こうして自分のことを振り返ることが出来るようになったのも、やはり、シルバーバーチの霊訓のおかげだと思っています。
特に、苦に対する私の態度は、シルバーバーチの霊訓に出会う前と出会った後とでは、まるっきり違ってしまったと言えると思います。
あと、今思いついた私に足りないことは、私に成長の機会を与えてくれている日々への感謝なのだと感じています。
今回は、以上となります。
2024年7月21日日曜日
私はこの一か月の間、仕事をはじめとしたミスやちょっとしたトラブルがあって、しかもまだ解決には至っていないものもあります。
それらは、一年以上前から続いている自分の中の葛藤の現われだと感じています。その葛藤の中には、これ以上私に読書会を開催してほしくないという何かしらの力の働きも含まれています。
それはともかく、もともと私は失敗だらけの人生をおくってきたのですが、今振り返ると、失敗をする度に自分が少しずつ変わってきたのを感じています。
シルバーバーチの霊訓によれば、苦しい体験ほど大切な意義を持っているということになります。私もその通りだと思いますが、私の弱さと未熟さが邪魔しているせいなのか、その事実を心の底では未だに受け入れたくはないのです。
しかし実際のところ、もしも私に苦難がないとすれば、成長が出来ずに今よりもずっと憐れな人生のまま生涯を終えてしまうかもしれません。
このことは、いつの頃から始まったのかを忘れましたが、地上世界での辛さを一時でも忘れるために、いろいろと何かに依存して逃げてきたように感じています。
そもそも、かつての私は人間としての強さを、地上世界でのみ通用する地位(自分の置かれている立場や状況)や財産(お金や土地も含めた物質的な富)などで判断していたので、そのような地位も財産もない自分のことを無力で弱い存在に感じ、しかもそのような事実を受け入れたくはなかったのです。
それでもかつての私は、霊的なものの方が物質的なものよりも大切であることを何度も何度も自分に言い聞かせてきました。が、無理にでも言い聞かせなければならないほど、物質世界に翻弄されてきたのだと感じています。
私自身、子供の頃から霊的なことに関わり、早くから霊的な知識を学んできたわけですが、この地上世界の苦しみから抜け出すためには、自らの命を絶って霊の世界へ帰るか、あるいは、地上世界で苦しまないだけの地位や財産を得るか、という短絡的な考えに支配されてきたからだと思います。
もっとも、今でもそのような考えが完全に消えたわけではないのですが、けっきょく、地位も財産もそれほど見込めない現実を目の当たりにして、いかにその現実から逃げるのか?という自分の中の思いが依存的な自分を作ってしまったのかもしれません。
何だかまとまらない話になりましたが、魂の自由を自らが奪うようなことを続ければ、今、私が経験しているような苦難を味わうことになることだけはわかりました。
そして、苦難(私の場合は、物質的なものよりも精神的なものの方がより辛く感じますが、人によっては、経済なことだったり病気だったりすると思います)を経験することで、自分と向き合うようになると思っています。
ただ、苦難を経験しても、自分の内側に目を向けずに、自分の外側に原因を求め、他人や運などのせいばかりにするならば、新たな苦難を経験することになるかもしれません。
今の私が本当の意味で強いと思える人とは、自分の未熟さや弱さ、あるいは、過ち等を素直に受け入れて(それは自分を責めることではないし、同時に他人を責めることでもありませんが)、成長をし続けていける人なのだと思います。
成長して、のりこえていく。こういう考えがまだまだ私には欠けていたのだと思います。
やはり、逃げてばかりの人生だったと後悔しないような生き方を、これからの私はしていきたいです。
2024年7月7日日曜日
気付けば、久しぶりの投稿となりました。
今回は、今日の読書会を終えた後に、みなさんと話した内容の一部について紹介したいと思います。
この話は、自分が足立の読書会を開催する前の話となります。私がまだ40代の頃までは、地元のスナックに足を運んでお酒を飲むことがありました。そのスナックにはお気に入りの女性がいたので、居酒屋より高いお金がかかりましたが、時々、店に顔を出していました。
(ちなみに読書会に通うようになってからは、ある一定の限度を超えてスナックに行った時には、人を介してスピリットから度々注意されることもありました。今はお酒を全く飲まなくなったので、それも含めて懐かしい思い出です。)
それはともかく、そこのスナックのお気に入りの女性とは別の女性と話していた時のことです。その女性といろいろと話すうちに、その女性の両親が北海道に住んでいることがわかりました。
私の両親も北海道出身ですので、北海道のどこですか?という話になりました。
その女性の話を聞いているうちに、両親と同じ桧山郡で、しかも同じ町名のメークインの産地で、さらに住所も番地以外は同じであることがわかりました。
けれども私には、その女性の苗字には記憶がないので、北海道は広いことから、同じ町名でも別の地域なのかもしれないと思いました。
でも、その地域に入るには、海と山と川があることから、限られた道からしか入れないので、確認のためにその女性に聞いてみました。
結果は、ばっちり合ってました。その女性の両親と私の両親は、かつて同じ地域に住んでいて、私とその女性は、ある意味、同じ故郷となるわけです。
けれども、スナックのママから注意を受けていたこともあり、それ以上、その女性と親密になることはありませんでした。その女性は、北海道に住む両親に仕送りをするために、昼の仕事を終えた後でスナックを手伝っていたそうです。
で、後日談として、その女性から、私の誕生日の時にメークインを頂きました。お互いに笑い合いましたよ。
結局、今世で生きてきて思うことは、読書会の参加者の方もそうですけど、とても深い縁というものを感じています。
私は、”縁”と言う言葉を普段は使わないのですが、人と人とのとても深いつながりを感じて、これを書いている私にはその言葉しか思いつきませんでした。
そのような出来事は子供の頃からあるのですが、みんな元気だと良いな~と思っています。
2024年5月15日水曜日
今回は、私事を書こうと思います。
私が離婚してシングルファザーとなってから、すでに二十年の年月が経ちました。
これから話すことは、霊能力者を通して、霊の世界から伝えられたことですが、たんなる妄想だと思って読んでもらえると有難いです。
私が今回、地上に再生してきた目的の一つは、過去世から繰り越されてきた課題をやり遂げるためです。
最初に彼女(元妻)と夫婦になったのは、古代エジプトと呼ばれるより前の紀元前のことで、私はまだ国を形作る前段階の領地での神官でヒーラー、彼女はそこの権力者の隠し子という立場でした。二人は駆け落ちという行動の末に夫婦となりました。
その時代の彼女は、精神の錯乱により、二人の子供たち(今回、地上で生まれてきた子供たちでもあります)を殺害してしまい、それを知った私は彼女を殺害してしまいます。そして、私は捕らえられ牢獄に入り、その後一切食事をせずに餓死をしました。
彼女との二度目の再生では、中世と呼ばれる時代のヨーロッパで夫婦となり、子供を二人授かりますが、彼女は精神に病を抱えていたことが災いし、魔女狩りの犠牲者となってしまいました。
彼女とは今世で三度目の夫婦となります。そして、二人の子供を含めて古代から持ち越した課題をやり遂げるために再生してきました。
今世では、私が19歳で彼女が16歳の時に、二人は出会いました。
やはり今世においても彼女が抱える闇は深かったのですが、私なら彼女を救えると思っていました。
それが私の生まれてきた使命だとさえ思っていました。
今思えば、完全なる思い上がりでした。
私が未熟なために、ずいぶんと彼女に辛い思いをさせてしまったと思います。
でも未練や執着から、一番にやらなければならないことを私はずっと避けていました。
それは彼女を、私から自由にすることです。
お互いに、人には見せられない嫌な部分をぶつけ合い、傷つけ合うこともしましたが、それは双方が成長するために必要な過程での出来事だったと思います。
彼女はやはり今世でも、ある時期になると精神を病んでしまって、ついに二人の子供を育てられなくなりましたが、彼女が新しい家庭を持った今でも、母と子供の関係は続いています。
そして私は離婚をすることで、初めて彼女を妻としてではなく、一人の女性として見ることが出来るようになりました。
今回の人生でも、彼女とはハッピーエンドの物語のようには行きませんでしたが、今まで曖昧になってしまった夫婦としての関係を終わらせることが出来ました。
もしかしたら、過去世で結ばれなかった男女が出会って、今世で夫婦になられた人もいる一方で、彼女と私のように過去世で夫婦だった関係を、今世できちんと解消するために生まれてきた人たちもいるのかもしれませんね。
さらに、私は二人の子供たちの父親であるのですけど、それは霊の世界に行ってもそうだと思うのですが、彼女と同じように、二人の子供たちを自由にするために生まれてきたとも感じています。
ある意味、私はみんなと別れるために再生してきたのだと感じているのです。
もっとも、霊的には別れなど無いのかもしれませんが、地上での親子や夫婦のような関係からの別れであるのは間違いないでしょう。
こういう物語もあるということで、紹介しました。
以上となります。
2024年5月6日月曜日
読書会を終えた後の話となります。
昨日の読書会の意見や感想を聞いて感じたことは、
「神とは法則です」というシルバーバーチの言葉が、「人によっては生きることにネガティブな思いを持たれる場合がある」ことを知りました。
実は、そういう私もその一人だったのです。
そこで自宅に帰った後、「何故、”神とは法則です”と聞いて、私はネガティブに感じたのだろうか?」と、自分に問いかけようと思いました。
しかもこれは、前世の課題の続きでもあるとも感じていたので、自分の内奥へと意識を合わせていきました。
最初に、法則と言う言葉には、そこに優しさや思いやりなど、愛の入る余地がないと感じられました。
さらに法則という言葉には、善悪に関係なく働く冷徹なものというイメージが浮かんできました。
するとその後で、言葉にするとおおよそ次のような「神とは法則であるとは、神の愛が全てに行き届いているということだよ。つまり、誰もが神に愛されているということだ。きっと、シルバーバーチはそのことが嬉しくて、そのような表現を用いてみんなに伝えたのではないだろうか?」という答えが返ってきました。
そこで、「私だって、神の愛が本当にあるのだと心の底から思えたら、それはとても嬉しいだろうから、どうにかしてそれをみんなに伝えたいですよね~」と思いました。
が、そもそも私は、神の愛を感じる力がとても貧弱なので、それはまだまだ実現しそうにありません。
ともかく、たったこれだけの答えを自分が得るのに、ものすごいエネルギーを使ってしまったみたいで、今日はとても眠くてしょうがないので、三度寝をしてしまいました。
と言うことで終わります。
2024年5月1日水曜日
「4月27日の読書会の報告」の補足となります。
かつて私が所属していた労働組合について、もう少し書き加えたいと思います。
私が三十代まで所属していたのは、全国規模の大きな労働組合です。
今、私が所属しているのは全国規模ではありますが、そこまで大きな労働組合ではありません。
それと、かつて所属していた労働組合の中の”ある活動家の先輩たち”とは、今から二十年以上前に存在していた”あるグループの人たち”で、組合組織を内部から変えていくために結成された非公然のグループメンバーでした。(今もそのグループと通じている人がいるのかどうかはわかりませんが、今はその先輩たちはいません)
ですから、そのような活動家の先輩たちのグループは、労働組合に所属している組合員の割合からすれば、ごくごく少数で、その存在を知っている人もかなり少なかったと思われます。
ところで、私が十年以上その労働組合で頑張り続けたのは、公私にわたって面倒を見てくれた先輩たちや仲の良い後輩たちがいたからでした。さらに活動家の先輩たちの中にも、とても尊敬できる人がいたからというのも理由としてあります。(その方は、今の私の年齢の頃に他界されました。)
たとえば、その先輩の「生きている限り自分を成長させていきたい」という姿勢は、見習おうと思ってもなかなか出来ないことでした。
さらに職場の人たちが仕事を終えて居酒屋へ直行している時であっても、活動以外に自主学習やグループでの勉強会も行っていたようです。(もっともその先輩も若い頃は、よくみんなと飲んで遊んだそうです)
また、その先輩が人生に明確な目標を持って、「労働者のために、自分はどう生きるのか」と、日々、自分に問いかけていたことなどを考えると、未だに、「私って凡人だな~」とつくづく思ってしまいます。
そして、何より有難かったのは、実践の大切さを教えてくれたことです。「言葉だけなら、いくらでも良いことは言える。労働者の役に立てる場は、組合事務室や会議室ではない。」と。
さらに、私がお金に欲を出してずるい考えを持ったときには、「身銭を削らなければ、本当の意味で人はついてこない」と怒られたこともあります。
このことは嘘みたいですが、オーラが凄すぎて、霊感のあるなしに関わらず、人によってはある種の恐怖すら感じるようでした。特に、やましい思いがある人などは、その先輩に近づくことも出来ないようでした。
それなのに、とても女性にもてる方で、数十人でキャンプをした時とかは、組合員の旦那をそっちのけで、いつも奥さんたちがキャッキャと周りを取り囲んでいました。
こういう人のことをカリスマ性がある人というのだろうと思います。
ただ残念なのは、組織を強化拡大することに邁進しすぎて、組織の中に戒律のようなものが出来上がってしまったことです。
ついにはそのことが、個々の自由を奪う結果となり、「組織のために自己犠牲が出来る人は偉い人で、出来ない人はダメな人」となり、自己犠牲を強要するような体質になってしまったようです。
ようするに、「労働者のために生きる=組織のために尽くす=自己犠牲」という構図になってしまったのです。
これが労働組合ではなくても、「人類の幸福のためには、今の組織を強化拡大する必要がある。組織拡大のためには努力が必要である。その努力とは、組織に尽くすための自己犠牲のことである。」となってしまえば、本人は人類のために尽くしているように思っても、本当は、その組織を運営している側に尽くしているということになるのでしょう。
もっとも、今まで書いてきたことは、私の経験上からの話であり、他の人たちから見れば、まったく違った視点からの話になるかもしれません。
けっきょく、組織の掲げている目標が「人類の幸福」などのように崇高であったとしても、主な活動が組織内で(優越感や自己満足を勝ち取るため)の取り組みがほとんどだったり、組織の方針と異なるからという理由で、実際に困っている人がいても見て見ぬ振りだったり、普段は言うことが立派でも、危機に対して自分の身の安全だけを確保しているのであれば、その組織は、人類のことが好きで大切で目標を立てているというよりは、自分のことが大好きな救世主願望の強い人たちが集まって出来ている組織のように感じます。(それを中二病グループと言うのかもしれません)
これに関連することで、小説やアニメなどでも見られるのですが、そもそも(神から選ばれた)救世主が人類を救うという発想は、神を人格神としてみている概念があるからだと思われます。もしも人格神としてではなく大霊としてみているならば、私たち一人一人の内部にこそ、救世主が存在していることを理解されているはずですから、そのようなヒーロー願望を持つことは少ないように思います。(そうは言っても、ヒーローに憧れるのは決して悪いとは思いません。)
今回は、かつて所属していた労働組合のカリスマ的な先輩について紹介しましたが、もう一人、私が大きな影響を受けた先輩がいます。その先輩こそが、「道具である組織への信仰は間違っている」と教えてくれた人物です。そして、「目的と手段を間違えるな。ラベルではなく、中身を見ろ」と忠告してくれた人でもあります。
自分のこれまでの人生をいろいろと振り返ってみると、いろいろな人に教わったし、楽しいこともたくさんあったけど、ボロボロ過ぎて、人生って、きれいごとだけでは済まされないなって思いました。
何故なら、三十代までは正しいと信じてやってきたことが、今の五十代の私からすれば、いろいろと間違っていたと感じるからです。そのせいで、たくさんの人にたくさんの迷惑をかけてしまいました。
ですから、今、こうしてみなさんに向けて書いていることだって、必ずしも全てが正しいわけではないのかもしれませんから、参考程度に読んで下さい。
ということで、今回は以上となります。
2024年4月21日日曜日
最近、私が学んだり伝えられたことで印象に残ったことを書こうと思います。
『魂の法則』ヴィンセント・ギリェム著 小坂真理訳 より
霊界との交信 (94ページ1行目)
援助はなぜ直接的ではなく、暗号で与えられるのですか?
「魂の自由意志を侵さず、魂自身に自己発展の努力をさせるためだ。
よい数学の教師であれば、生徒の実力をつけるためには、答えを直接見せてはならず、行き詰った時に適切で正確な説明をして、生徒自身で問題を解くよう導くべきだと知っているものだ。
進化途上の魂にも同じことが言える。解答を直接あげてしまったら、自力で霊的な試練を解決しようとしないので進歩がない。怠慢になり、指導霊が自分の問題を解決してくれるのを待つようになるだろう。
その人自身が決めなければならないことを教えてあげることも、自由意志に関与することになるので、正当とは言えない。魂は自分で決断しないといけないのだ。だが、自力で乗り越えるために知っておくべきなのに、独りでは気づけない重要な細部もあるため、ヒントは与えられる必要がある。
魂が、自己の問題を完全に自覚しており、独りで解決する能力がある場合には、助けは不要なので与えられない。それは、裕福な人びとの地域に食料を配りに行くようなもので、彼らは配給される食糧は独自に入手できるので、全くの無駄となってしまうからだ。」
そういえば、以前に「魂は自由と幸福を求め続けている」という話を聞いて、私もその通りだな~と思いました。それから、魂の自由と幸福のためには、魂自身の自己発展が必要であり、それを人によっては、霊性進化とか霊的成長、あるいは、意識の拡大と呼ぶこともあります。
『シルバー・バーチ霊言集 二十一世紀のためのバイブル』 A・W・オースティン編 桑原啓善訳
第四章 神について
(46ページ7行目)
光と闇、陽光と影、これは単に一なる全体の反映にすぎない。影がなければ光はない。光がなければ影もない。そのように人生の苦しみは、魂が上へ上がって行くための階段である。
困苦・障害・不利益、これらはすべて魂の試練であり、魂はこれらをすべて克服し得て、初めて強くなり、浄化され深みを増し、高く飛躍できるのである。
(50ページ10行目)
(答)完全があり不完全がある。しかし、不完全が発展して完全となるように、不完全の中には、完全の種子が宿っている。完全は完全から生まれることなく、ただ不完全からのみ生じる。
生命とは、生々発展し、進歩向上し、顕現拡大するものである。善といい悪といい、それは単に、生命の進歩途上の階段にすぎない、そこが終点ではない。皆さんは中途半端な頭でものを判断するから、ここまでが善で、そこからは悪と言う。だが、それは人間的な観念にすぎない。皆さんがやがてもっと違った立場に立てば、善悪の判断も自ずから違ったものになる。しかし、神は常にあらゆるものの内部に在り給うのである。
シルバーバーチが語る言葉は、それを訳している方が違っていても、私の内奥に響いてきます。昨年からこれまでの一年間は、自分でも成長という点で見ると低迷していたことを感じますが、シルバーバーチの言葉から、魂が階段の上へ上がって行くために必要な時期だったのだと思えるのが救いです。やはり、無駄なことも、偶然も、奇跡さえもないのだということだと思います。
2024年4月8日月曜日
これまでシルバーバーチやホワイトイーグルの教えなどを、足立の読書会に限らず他の読書会でも学んできましたが、それでも今後の行く末を思うと、いろいろと迷いが生じたりします。
そういう時は、以下のような言葉を思い出すようにしています。
「わたしは神の中にいると同時に、神はわたしの中にいる。わたしと神との間に、何かを入れようとするから迷うのだ」
「私たちは神の一部だから、私たちは神の一部分を形成しているのだ」
「私という存在は、世界にとって必要とされているから、今、私は、ここに存在しているのだ」
私たち一人ひとりが神の一部を形成していると、もしも本気で思えるのなら、自分をもっと大切にしようと思えるでしょうし、自分以外の人に対しても、大切にしようという思いが芽生えてくるように感じています。
まぁ、私はそのような言葉を思い出して、辛いことがあっても、今までのりこえてきたのです。
2024年3月18日月曜日
「足立シルバーバーチ読書会について」ホームページでの説明を変更した理由について述べたいと思います。
今回、改めて読書会の紹介を変更した理由は、「シルバーバーチ読書会」という名称について、世間一般の方たちになるべく不信感を持ってもらいたくなかったからです。
そのような理由から、これまでの読書会を一度振り返って思ったことは、やはり読書会の名称を使用している限り、扱っている本がたとえ「シルバーバーチ」であっても、読書会の形式に従って会を進めて行く必要があると思いました。
何故なら「シルバーバーチの霊訓」の読者たちを、宗教や信仰などと結びつけ、さらにその読者たちを選り好みし、特定の人たちで固めていくとすれば、それはすでに読書会の名をオブラードにした宗教や思想団体であると思うからです。
もしも私がそれを望んでいるとするならば、読書会という名称を使用してはいけないと感じるのです。
そもそも読書会の場が、各自の意見を”信じる”とか”信じない”とか、”正しい”とか”間違っている”とかのように、信仰心や忠誠心が試される場となっているとすれば、それは違うと思っています。
また、私の経験からですが、自由意志を尊重するよりも組織の方を優先し、各自の自由意志そのものに制限をかけてしまう方法は、あまり良い結果を生み出さないやり方だと感じています。
たとえば、組織の中では従順に見えても、組織から離れたところでは逆の態度だったりすることもあります。
そのような「親の前では良い子であるのに、外では全く違っていた」という話ならどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。もちろん読書会の場の中で、そのような良い子の自分を演じる必要はまったくありません。
ただし、お互いの自由意志を尊重するためには、お互いに成長していこうという意志を、各自が持っている必要があるでしょう。
それと何よりも、それぞれの方に”思いやり”が足りなければ、他者と自分との違いを受け入れることが出来ないと思われますし、お互いの自由意志を尊重出来ずに、相手を批判し、自分の意見や考えの正しさを押し付けようとするかもしれません。
そうは言っても、読書会というのは参加するのもしないのも自由ですし、私としては参加者のみなさんに、これからも楽しんでもらえれば良いと思っています。
ということで、今回は終えたいと思います。
2024年3月3日日曜日
2月17日に発熱し、19日の検査で新型コロナに感染していることがわかり、しばらく仕事を休んでいました。
その時感じたことをメモしてあったので、自分自身を振り返りながら書き残していきたいと思います。
それと、その時々に感じたことを書き留めてあるので、文章としては繋がっていない場合もあります。
2月19日月曜日
「自分がコロナに罹って、まず最初に思ったことは、今までずっと私は霊的な存在に守られてきたということでした。けれども、いつしかそれが当たり前のことのように思ってしまって、感謝の気持ちを持てなくなっていたようです。
しかも、他人が新型コロナに感染するのを見て、それらの人たちをちょっと馬鹿にしていている自分に気がつきました。それと同時に、そのような自分であることを望んでいない自分がいることにも気がつきました。
こうやって病気を経験すると、ヒーリングの必要性を感じます。
これまでの私は、いずれ誰もがヒーリング能力を持つようになり、自分で自分を癒すことが当たり前の世の中になっていくと感じてきました。そのため最近の私は、ヒーリングに対して、だんだんと興味が失せている最中でした。
自分の中で消えない執着があります。たとえば、ゲームの中では負けたくない、一番になりたいという欲望があります。
それは私の中に、「地上世界では一番にはなれないし、せめてお気に入りのゲームの世界の中では、自分の思うようにしていきたい」という欲求があるからだと感じています。
何かそれって、「スピリチュアルの世界の中であればトップになれる」という欲求と似ているような気がします。
たとえゲームの中で一番になれたとしても、新たな欲が生まれるだけで満たされない。それを知っているのに、自分の中から執着が消えていかない。
これまで約9か月間、そのような自分の中の執着とたたかってきたのですが、今回の病気で、嘘のように自分の中から執着が消えてしまいました。それはまるで、自分の中身が洗い流されたように感じます。」
2月20日火曜日
「私は私に執着していました。私にとって、全ての苦しみの原因はそこから始まったのではないでしょうか?
(肉体を持った)私というのは一つの焦点であり、私という存在そのものではないと感じています。
そのように感じるのは私だけではないようです。
ある人が、「自分という存在はそもそも幻覚である」と言っていました。その人によれば、肉体あるいは身体は機械であり、それは車(乗り物)と同じようなもので、車が自分ではないのと同じことであるそうです。
ちなみに、身体という言葉を使う場合は、そこには肉体と精神(心)が含まれていて、精神や心も含めて機械であると主張されているようです。
そういうことで、肉体と精神は機械であり、自分という存在は幻覚であるということになるのだと思われます。
結局、その機械を使用している何かしらの存在がいて、その存在が機械を使用することで、私という幻覚が生まれるということなのでしょうか?
ただ、その人の主張では、その何かしらの存在も無いということなので、それはそれで面白かったです。
それらの真偽はともかく、私が病気で苦しんでいる時に、そのような主張に対して、自分でもアレコレと考えていたことに驚いています。」
2月24日土曜日
「仕事帰りに思ったこと。
今まで、”地上世界とは、霊的な向上をするための修行の場である”と思って生きてきました。それが間違ってはいないとしても、そのように思うことで、私と世界との間は、どんどん分離していきました。
世界と自分が分離すればするほど、潜在的な恐怖心が不安や心配の念を増長させていくように感じます。何故なら世界は味方ではなく、良い自分でなければ救われないという思いが見に染み付いているからです。
まるで”地上世界に苦しみが多いのは、地上世界が修行の場であるから”という言葉は、言わば気休めのために、自分が自分に言い聞かせるための呪文のようにも感じられます。
そのように私と世界が分離している状態のままで、カルマのことを理解しようとすれば、カルマとは、まるで天罰のようで、けっして逃れることの出来ない呪いのようにさえ感じてしまいます。
永遠の命でさえ、一種の拷問にしか思えません。
それから逃げるために霊の世界を夢見ることは、逃避であるかのように思えます。
それでも言葉とは不思議なもので、”原因と結果の法則”という言葉からは、神は公平であるという思いが感じられます。
ここで一旦、私と世界との間にある深い溝を埋めて、世界は私の味方であり、どんな些細なことでさえも見逃さないと思えるならば、今までと違った”地上世界”を生きることが出来るのではないでしょうか。
ざっと書き留めてみましたが、日々、いろんなことを考えているんだな~と思いました。
2024年2月18日日曜日
本日のオンライン読書会は、都合により延期とさせていただきます。
2024年2月5日月曜日
今さっき、ふとしたことで、霊界のことを”死後の世界の案内人”に教えてもらった内容を紹介している動画を見たのですが、とても勉強になりました。
特に魂について語っている内容については、私がこれから学ぼうとしていることと重なっていたので紹介したいと思います。
「すべてであるもの」と「魂」とは同じものです。さらに魂とは簡単に言えば、”変化”のことであり、変化を利用して多くの経験を手にすることが出来るようになります。
多くの経験とは、分身の人生によってつくられます。分身が人生で経験することは、「すべてであるもの」も経験しているということです。
分身が人生を通して自分の存在を経験できれば、「すべてであるもの」も、自分が誰であるのかを経験できます。
つまり変化という「動き」が、「すべてであるもの」の存在を確立させるのです。
ここでもし変化のない状態、すなわち世界のすべてが止まった状態であるとすれば、分身は人生を生きることができません。分身が存在しなければ、「すべてであるもの」の経験も生まれなくなります。
すると(経験がないのですから)自分が誰であるのかを理解出来なくなります。それどころか存在すら出来なくなるのです。
そのため変化は分身にとっても、「すべてであるもの」にとっても、不可欠なのです。
変化は、「すべてであるもの」と、魂の二つを意味するだけではなく、宇宙に存在する生命とその人生までもを意味します。
「すべてであるもの」は魂で、魂は変化で、変化は生命であるということであり、全ては同一のものなのです。
要は、「すべてであるもの」は魂であり、生命であり、変化であり、人生であり、あなた自身であるのです。
「すべてであるもの」は、神だとも言えます。さらにそれは、愛と、喜びと、祝福と、栄光だと言えます。どれもがイコールで結ばれているのですから、「あなたは喜びと栄光の存在である」と。
ざっと動画のごく一部を紹介させていただきましたが、この後も多岐にわたって霊界のことについて語られています。
私がこれまで学んできたことを(言葉使いや内容の一部が違うのですが)、とてもわかりやすく説明されているようでした。
2024年1月23日火曜日
昨年から続いた精神的な不調は、睡眠不足が大きな原因であることがわかりました。
ある人のブログに”睡眠不足”という言葉がのっていたのですが、その言葉がずっと今まで心に残っていました。
それと今年に入って、無性に甘いものなどが食べたい衝動にかられていたのですが、それは仕事などのストレスが原因だろうと安易に考えていましたが、そうではなかったようです。
自分の中の霊的エネルギーが不足した時に、どうやら睡眠不足のせいで、寝ている間に十分な補充が出来なかったようです。
そのせいで、無意識に食べ物から補充しようとしていたのかもしれません。が、食べ物だけではとても補充しきれないようです。
とにかく今までの私は、睡眠のことをすごく軽く考えていました。
それどころか、睡眠を削ってでも別のことをすることが美徳だとさえ思っていました。
睡眠と運動と食事のバランスが大切であることを、この歳になって初めて理解しました。
これからは出来るだけ睡眠の時間を取るように努めたいと思っています。
2024年1月16日火曜日
miyukiのブログのみゅうさんから、読書会のみなさんのために書いて送ってくれた作品です。
この他にも、みゅうさんから数々の作品を送って頂いています。
残念ながらブログの方は休止中のようですが、日々、頑張っておられるようですね。